2019年7月29日月曜日

主体的に取捨選択できるようになるために


ジョシュア・ハリスさんが、離婚を発表し、
キリストから背を向ける表現を否定しないと述べたことについて

《主体的に取捨選択できるようになるために》



多くのクリスチャンの方々がそうであるように、私も多くのクリスチャンの著者が書いた本を読む機会が与えられました。その著者の中には、残念ながら本を出版した後に、罪を犯すことになってしまった方々もいました。


 そのような本でも、読んでよかったと思うケースもあるのです。

主イエスは「ですから、彼らがあなたがたに言うことはみな、行ない、守りなさい。けれども、彼らの行いをまねてはいけません。彼らは言うことは言うが、実行しないからです。(マタイ233節)と言われました。

主イエスは、パリサイ人のことを「ゲヘナ(地獄)の子ら」と呼ばれました。しかし「彼らの言うことをみな否定するのではなく、神が言われることと矛盾しないのであれば、それは受け入れなさい」と、主イエスは言われます。一方で、「彼らの行ない(生活においての言動)を真似てはいけないよ」と、主イエスは言われます。

私も以前は、「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」という態度を「失格者たち」に対して取った時期がありました。しかし今では、自分がキリストのようになるために必要なものを、取捨選択できる主体性が成長できればいいと考えています。


 どうしたら、そのような主体性が養われ育まれるのか? 

パウロは次のように言っています。

「こうして、キリストご自身が、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を伝道者、ある人を牧者また教者として、お立てになったのです。それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためであり、ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです。それは、私たちがもはや、子どもではなくて、人の悪巧みや、人を欺く悪賢い策略により、教えの風に吹き回されたり、波にもてあそばれたりすることがなく、むしろ、愛をもって真理を語り、あらゆる点において成長し、かしらなるキリストに達することができるためなのです。」(エペソ41115節)

ずいぶんと長い答えになってしまいましたが、まさにここに、主体性を養う秘訣が書いてあるのではないでしょうか。この聖書箇所の後半で、パウロは大人になって欲しいという趣旨の発言をしています。なぜなら子どもは、「人の悪巧みや、人を欺く悪賢い策略により、教えの風に吹き回されたり、波にもてあそばれたりする」からだ、と書いています。子どもは、主体的に取捨選択できずに、教えの風に吹き回されたり、教えの波にもてあそばれたりしてしまうと、問題の根っこの部分に触れています。


  一方で、大人は、何が本物で、何がガセネタであるかを主体的に取捨選択できる状態、もしくは成長段階を指すのだと思います。

パウロは、キリストのようになることを目指して成長することを助け合うときにのみ、このような取捨選択できる(識別の)成長が望めると言っています。この文脈から離れてしまうと、どれだけ知的ジャイアントになっても大人になりきれないのではないでしょうか。キリストが何を大切にされているかという核心、もしくは基準から離れてしまうと、せっかくの賢そうな発言も、教えの風や波から自分と他者を守ることができない残念な結果になってしまうのではないでしょうか。

エペソ4章11~15節を読むと、教会を建て上げるときに、つまりお互いがキリストのようになることを目指して成長を助け合うときに、キリストの知識をさらに理解することができると書いてあります。私たち人間はみな自分を優先させる者です。自分の成長については時間とエネルギーを使いますが、他者の成長については自分の成長ほどに時間とエネルギーを使わない者です。

しかし、パウロは「キリストは使徒、預言者、伝道者、牧者、教仕を立てるのは、彼らがクリスチャン同士の成長のために時間とエネルギーを使うようにファシリテートしなさい。それはキリストのからだ(教会)を建て上げる(成長を助け合う)ためです。その成長を助け合うプロセスに参加する中で、キリストが何を大切にされているかを知り理解することができます。そしてキリストが何を大切にしているかを知ることができれば、そのことによって、お互いの霊的成長にとって何が良いもので悪いものであるかを識別できるようになるので、ガセネタ(教えの風や波)に振り回されなくなる」(私訳)と言っています。キリストが何を大切にされているか、参加したときに、主イエスが聖霊によって教えてくださり「主体的に良いものと悪いものを取捨選択できる状態」が養われて育まれて行くのではないでしょうか。

キリストが何を大切にされているかを知らなければ、教えの風と波に吹き回され、もてあそばれてしまいます。つまり、本物とガセネタの区別がつけられないということです。特に、ひと世代前までの日本人は活字になった洋物に弱いというか鵜呑みにする傾向性があるように思います。そして次世代も前の世代の影響を多少は受けるように思えます。日本のプロテスタントのクリスチャンは、洋物(特にアメリカ)のキリスト教なら、吟味せず、検証もせずに、なんでもありがたくいただく傾向性があるように思えます。


 どうしたら主体的に取捨選択できるようになるかの大きなヒント

かくいう私もその中の一人でした。しかし、地域教会でキリストが願われていることに取り組む機会が与えられるに従って、だんだんと本物とガセネタを見分けることができるようになりました。特に、エペソ4章11〜16節には、どうしたら主体的に取捨選択できるようになるかの大きなヒントがあります。

しかし、お互いの成長を助ける知識を吸収して消化するのには、神の愛がなければ消化することは難しいでしょう。そうでなければ反発を覚えて、せっかくの真理も弾いてしまうからです。私も、尊敬していたクリスチャンが罪を犯したりすると、その後に反発して「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」というモードになりやすい者でした。

しかし、それぞれが参加している地域教会の中で、相手の成長に仕える経験を積むと、相手の成長に仕える上で何が良いのか、また悪のかを見分ける識別力が成長して、主体的に取捨選択できる力が育まれるのだと聖書は言っています。

「ミルクばかり飲んでいるような者はみな、義の教えに通じてはいません。赤ちゃんなのです。しかし、堅い食物はおとなの物であって、経験によって良い物と悪い物とを見分ける感覚を訓練された人たちの物です。」(ヘブル51314節)

ミルクは、自分とキリストの愛し合う関係を育み養うものです。一方で、堅い食物は、他の兄弟姉妹の成長に仕える上で必要になるキリストの知識です。コリントのクリスチャンは争っていて、相手に仕えるどころか、キリストと愛し合うという基本的な関係を放棄するような状態でした。そのコリントのクリスチャンに必要なのは堅い食物ではなくて、ミルクだったのです。もちろん彼らの心の中には、お互いの成長にとって何が良いもので、何が悪いものかを判断するような態度はありませんでした。ですから、主体的に良いものと悪いもの取捨選択するどころの話ではなく、互いに愛し合うという基本的なスタート地点に着くために、もう一度ミルクを飲むことから始めなさいとパウロに言われる始末でした。

以上からもわかるように、相手の霊的成長に仕えるという動機を見失うと、何が本物で、何がガセネタであるかを見分けることはできないことになります。なぜなら、相手の霊的成長にとって何が良いか悪いかを、キリストが大切にされていることを基準にして識別するのですから、日々、それに取り組んでいる人でなければ、経験を積むこともできず、経験を積むことができなければ、識別力は養われないからです。

ジョシュア・ハリスさんが、アメリカの性的マイノリティを擁護する文化的圧力に同調してしまったのは悲しいことです。しかも、その上で、キリストの愛から離れてしまったことはさらに悲しいことです。しかし、彼が書き残した本の内容のすべてが否定されるわけではないと思います。キリストが言われたように、ゲヘナの子パリサイ人が言うことでも正しいことは聞き入れて、彼らの言動には倣ってはならないとのキリストの命令に従えばいいのだと思います。


 キリストは、ご自分が大切に思っておられることを明らかにしてくださるので、私たちは何が良いことで悪いことかを識別できるようになる

そして、識別力を養うことについて、聖書から長々とわかち合わせていただいた内容が、これを読まれる方々にとって祝福となることを願っています。たとえ、どんなに素晴らしく見える人間が失敗して倒れても、つまずかないように! 私たちのイエス・キリストは決して倒れることはありません。すでに罪に勝利されて、逆に私たちが罪に打ち勝つことができるようにしてくださいました。

キリストは、ご自分が大切にされていることを、人間を通して、聖霊によって明らかにすることによって、私たちを赤ちゃんから大人へと成長させてくださいます。主イエスは、私たちが成長する過程で、識別力をも育み養くださいます。そのようにして、互いの霊的成長にとって何が本物なのか、またガセネタなのかをわかるようにしてくださいます。その成長段階で、聖書の堅い食物は、さらに私たちの識別力を高めるための助けとなります。何から何まで、父なる神のサイドで、私たちの霊的成長に必要なものは用意してくださっています。

お互いの霊的成長のために仕え合って、成長して行く過程で、主体的に何が良いもので悪いものであるかを取捨選択できるように、これを読んでくださった方々のために祈ります。そしてすべてのクリスチャンが、霊的に成長するように祈ります

2019年7月2日火曜日

◉シリーズ なぜこの教会にしたの? Vol.14 りんご


りんご(主婦)
                               

JCに来たきっかけ


夫の転勤で、幼い子ども3人を連れてアメリカに引っ越した先で、永住日本人のクリスチャンファミリーと出会い、家庭集会に通う中で救われました。夫も私が救われてから一年後に救われ、家族全員でアメリカの日本語教会に通うようになりました。その当時、みことばに飢え渇いて聖書解説のWEBサイトやクリスチャンのブログをいろいろ読んでいましたが、私が特によく読んでいた3つのWEBサイトが、教会の所在地は3つとも違いますがどれもカルバリーチャペル関係者のものであることに気づきました。日本に本帰国後に通う教会への導きを求めている中でしたので、「カルバリーチャペルは自分に合っているのかもしれない」と思い、調べれば調べるほど、カルバリーチャペルに通いたいという思いがわきあがってきました。そんな私の胸のうちを一切知らない当時の教会の姉妹が「おすすめの教会があるんだけど、日本に帰ったら訪ねてみて」と教えてくれたのがJCでした。「カルバリーチャペル国分寺!やっぱりカルバリーチャペルなんだ!」と神からのコンファメーションとして受け取り、日本に帰国後に真っ先に訪れて、JCのドアをくぐって10分で「ここだ」と感じました。


JCの何がよかったのか

たくさんありますが、3つにしぼってご紹介します。  
①聖書と聖霊のバランス創世記から黙示録まで一節も飛ばさず、神のことばをまっすぐに解き明かし、神の計画の全体を知ることをコツコツ目指しているため、聖書をしっかり学べるところ。かといって聖霊の働きを否定せず、むしろ聖霊を求めることや、聖霊の賜物を受けることを励ましてくれるところ。②自発性を大切にしながら、秩序も重んじているところ。献金、奉仕、イベントへの参加など、すべて「神から愛されていることへの応答」として各自の自発性に任されているところ。かといって好き勝手やっていいわけではなくて、しっかりとコミットして弟子訓練を受ける中で、取り組んで失敗しながらも成長していくことを励ましてくれるところ。③互いに愛し合い、よく分かち合い、よく祈るフェローシップ「キリストが命じたとおり互いに愛し合うこと」を優先順位のトップにしているところ。かといって優等生ぶらずに、愛せない自分の弱さや汚さも分かち合って、等身大の自分でいられて、互いの必要を祈り合う兄弟姉妹とのフェローシップがあるところ。

なぜJCに決めたのか

一番の理由は、神の導きを確信したからです。初めてJCに訪れた日、賛美の中で聖霊にふれられて涙が止まらず、礼拝メッセージは心に刺さって目が覚めるような思いをし、兄弟姉妹は初対面の私たち夫婦にあたたかく接してくれ、「良い教会がみつかるように」と祈ってくれました。礼拝後に自然発生的にあちらこちらで皆が祈っている姿にも驚きました。その後、木曜の女性のためのバイブルスタディに参加し、とても深く濃くわかりやすい学びができ、参加者ひとりひとりの分かち合いにも恵まれました。いわゆる”福音派”の聖霊をまったく語らず求めないところや、教団的な教えやシステムに窮屈さや満たされない思いがあり、一方で”ペンテコステ派”の不思議な体験に走りがちで、聖書の一部分ばかりを強調する傾向性には居心地が悪くて引いてしまう、そんな私にとってJCはちょうどいいバランスでした。

JCの推薦できるところ

もし今この文章を読んでいる方がいるとしたら、あなたにJCを推薦します。こんな情報量の多いWEBサイトの、リンクボタンをたくさん押しながら、隅々まで何かを探してここにたどりついて、私の長い文章のこの最後の段落まで読んでいるあなたは、JCに導かれている可能性があると思います。良かったら一度、日曜礼拝やバイブルスタディに足を運んでみることをおすすめします。遠方の方なら、Youtubeか音声配信でメッセージを聞いてみてください。そしてあなた自身で確かめてみてください。私はJCに植えられてから2年以上になりますが、毎日神にJCに導かれたことを感謝していますし、どなたにでも安心して推薦できる教会だと思っています。


http://www.calvarykb.org/index.php/about-jc/why-jc

2019年6月19日水曜日

キリストの恵みと知識による成長〜偏見を乗り越えるには?



                                https://www.youtube.com/watch?v=y3qYEa3fevw

ペテロの偏見はしぶとく残りました。神であるキリストに3年間にわたり訓練されても、彼の偏見は残りました。聖霊を内側に受けても偏見は残ったのです。(ヨハネ20:22)聖霊
によって力を受けた後も、彼の内側には偏見が残りました。(使徒2:3)そして、福音を語り、奇跡を行ない、キリストのからだである教会が建て上がり、神のことばが広まって行った後にも偏見は残りました。さらに、キリストご自身が、ヨッパにおいてペテロを3回取り扱われた後にも偏見はしぶとく残りました。ガラテヤ2章を読むと、以上のすべての取り扱いをキリストから受けた後にも、ペテロは偏見に負けてしまったことが記録されています。しかし、そんなペテロをイエス・キリストは恵み深く取り扱ってくださいました。偏見なく取り扱われる主イエスが誠実だからこそ、ペテロは成長できたのです。主イエスがお与えになる栄光は、互いに愛し合うこと一つになることを可能にします。主イエスにあって父なる神の栄光をほめたたえます!

Three years of discipleship by God Jesus didn't cut Peter's prejudice!  Receiving the Holy Spirit didn't cut his prejudice!  The empowerment through the Holy Spirit at Pentecost didn't cut his prejudice!  The vision Jesus gave him three times, "What God has cleansed you must not call common" didn't cut Peter's prejudice!  Yet, the grace and the knowledge of Christ finally cut his prejudice.  Praise the Lord Jesus for His faithfulness!

2019年2月22日金曜日

神は、血筋や系図の良さによって、あなたを選びはしない


神は、血筋や系図の良さによって、あなたを選びはしない

                                            

しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、
神の子どもとされる特権をお与えになった。
この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、
ただ、神によって生まれたのである。
ヨハネの福音書 1章12~13節

ある人と結婚することを考えるとき、相手の家柄と自分の家柄が釣り合うかを考えるための「釣り書き」というものがあるのをご存じでしょうか。国語辞典を引くと、その【釣り書き】の定義の中に「系図」という意味があります。つまり、自分と相手の家柄・系図が釣り合うか? さらに言うなら、系図の中に立派な人(成功者や勝ち組や役職・地位がある人)がいるか? それらが双方の関心事なのです。

本来、結婚するときは、「この人と結婚したら幸せになれるか?」ということを考えるのが大切なはずです。しかし、相手本人よりも家柄を大切に思う相手だったら、その人と結婚することは考え直した方がいいかもしれません。

一方で、現在でも世界中で、相手の家柄を考慮して結婚する人たちは大勢います。例えば、日本では天皇家を筆頭に、旧華族や政治家や有力者などを見渡せば、ある程度、家柄を考慮して結婚する相手を選んでいるのは明らかでしょう。

しかし、聖書は、救われて神の子どもになるのは血筋にはよらない、と宣言しています。「この方(キリスト)を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。...この人々は、血(血筋)によって生まれたのではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ神によって生まれたのである。」(ヨハネ1章12~13節)

神が、御子イエス・キリストをこの世に遣わされたとき、どの家庭に生まれさせようかと考えられたはずです。そのときに、この世での良い立場や家柄を条件として考えられたのなら、ヨセフやマリヤを選ばれることはなかったでしょう。マリヤは自分は「卑しいはしため」だと言っています。そして、ヨセフは「大工をしていた」と村人が証言しています。二人とも、有力者でも、良い家柄でもありませんでした。

神は、人間社会の立場や役割や能力や容姿によって、ひとり子イエスを遣わす家庭を選ばれませんでした。ただ、大切にされたのは、ご自分の約束でした。ひとり子イエスが遣わされる家庭は、ユダ族であると約束されたのです。

イサクの息子のヤコブが次のように預言しています。「王権はユダを離れず、統治者の杖はその足の間を離れることはない。ついにシロ(キリスト)が来て、国々の民は彼に従う。」(創世記49章10節)

ユダ族出身のダビデも以下のように神から語れたと言っています。「わたしは、あなたから出る世継ぎの子を、あなたのあとに起こし、彼の王国を確立させる。彼はわたしの名のために一つの家を建て、わたしはその王国の王座をとこしえまでも堅く立てる。」(Ⅱサムエル7章12~13節)

ですから、イエスはユダ族として生まれなければならなかったのです。

それでは、あなたは言うでしょう、「なんだ!? やはり血筋や家柄は関係あるんだね。」しかし、その血筋である系図をよく読んでみると、とんでもない系図であることがわかるのです。

よく新約聖書を読み始めて、途中で読むのを止めてしまった人が、次のように言うのを聞いたことがあります。「マタイから読み始めて、最初に出てくる系図でつまずいた。」おそらく、系図はつまらない、いったい何の意味があるのか理解できないということで、新約聖書を読む気持ちが削がれてしまったのでしょう。

しかし、その系図に大切な意味があることを理解すると、逆に血筋や系図によって神は人を選んだりしないことがわかるのです。そしてこの系図を理解すれば、神は血筋や系図によって、あなたを愛するかどうかを決めたりしないことが分かります。

そうです。神にとって、血筋や系図は、あなたを愛する子どもとして迎え入れる上で、何の妨げにもならないのです。たとえ、あなたの系図や血筋にとんでもない人たちがいたとしても、そんなことは神にとって何の問題にもなりません。

まさにそのことを明らかにするために、マタイはこの系図を記したのです。この系図の中に曰わく付きの女性が四人も登場します。冒頭に記したように「釣り書き」は、お互いの血筋や系図を見て、相手が結婚するのにふさわしいかどうかを調べます。「釣り書き」にこだわる相手であれば、この四人の女性が系図の中に入っているのを見れば、結婚を躊躇するのは間違いないでしょう。その四人の女性たちとは以下の人たちです。

1)タマル
2)ラハブ
3)ルツ
4)ウリヤの妻
 
イエス・キリストはユダ族から生まれるというのが神の約束でした。ユダ族の元祖は、ヤコブの息子のユダです。そもそもこのユダ族の系図を汚したのがユダ本人なのです。以下に、この系図がとんでもない内容の詳細を記します。

1)ユダの長男エルにタマルという女性を迎えました。(創世記38章6節)しかし、エルはすぐに死んでしまいました。彼らのルールでは、次の兄弟が死んだ兄の家を残すためにタマルと結婚しなければなりませんでした。そこで次男オナンはいやいやながらタマルと結婚したのですが、彼も死んでしまいました。タマルが結婚すると息子たちが死んでいくのを見た義理の父ユダは三男をタマルの夫にするのを躊躇しました。そしてユダは、「不吉な嫁」タマルを実家に帰したのです。そんなとき、自分の妻を亡くしたユダが旅の途中で、ひとりの売春婦に出会います。この女性こそ、売春婦に変装していたタマルなのです。そんなことともつゆ知らないユダは、顔を隠していたタマルと寝て性交渉をしたのです。ユダが息子の嫁タマルによって生んだペレツとゼラが、イエス・キリストの系図の中に堂々と入っているのです。

2)ラハブは異邦人の売春婦です。前述したタマルは売春婦に変装したのですが、ラハブは正真正銘の売春婦です。彼女はユダヤ人が息子ボアズを生みます。このボアズは、ダビデの曾祖父になります。

3)ルツは身持ちのしっかりとした人でしたが、ユダヤ人の夫を亡くして未亡人となります。彼女の夫の母親であるナオミが故郷イスラエルに帰るときに、一緒にイスラエルにいくことにしのたのです。しかし、ルツはモアブ人でした。つまりユダヤ人への約束から外れた異邦人だったのです。そんなルツをラハブの息子ボアズが妻として迎え入れたのです。この系図、血筋に外人が二人も入り込んでいるのです。

4)四人目の女性は、ウリヤの妻バテシバです。この女性によって生まれたのがソロモンなのです。しかし、ウリヤの息子ではないのです。そうではなく、ダビデの息子なのです。つまり、人妻によって生まれた子が、ソロモンなのです。ソロモン王は、ダブル不倫の結果、生まれた子です。

このような系図を手渡されて、相手と結婚をすることを考えるとしたらどうでしょうか。もちろん結婚するのは相手本人ですから、その人の両親や祖父母がどういう人であれいいのだという考え方もあるでしょう。一方で、曰わく付きの四人の女性や、曰わく付きの事件を引き起こした男性たちが含まれる系図を見せられたらどうでしょう。その系図を見た人がドン引きしても仕方ないという考え方もあります。

この系図を書いたのはマタイです。マタイ自身、社会から受け入れられず締め出されいた取税人でした。ローマ帝国軍隊の手先として、同胞から税金を取り立てていたのです。しかも、しばしば不正に金銭をむしり取っていたので、たいそう同胞のユダヤ人たちから嫌われていました。だから、ユダヤ人社会から締め出されていたのです。

彼は、この系図が示すように、汚れた事件であっても躊躇することなく明らかにしています。そして、そんな汚れた者たちをこそ救うために来られたのがイエス・キリストであることを明らかにしているのです。

聖書は、イエス・キリストはあわれみ深く、恵み深く、慈しみ深く、怒るのに遅い方だと宣言してます。どんなに汚れていても、どんなに罪責感や罪悪感に苛まされていたとしても、そのあなたのためにイエス・キリストは、あなたの罪や負債を赦すためにの十字架にかかられたのです。

それは全宇宙を創造された父なる神が、あなたを赦して、愛する子どもとして迎え入れるためです。あなたを神の子として迎え入れるのために、命を捨てられたイエス・キリストを信じるならば、あなたは愛する子どもとして迎え入れられるのです。

そのときに、あなたの系図や血筋は何の妨げにはならないのです。どれだけあなたの系図が汚れていようとも、イエス・キリストは、その汚れた系図を引き継いでお生まれになったのです。それは、どれだけ家系の中で問題があって汚れていても、イエス・キリストは、そんな汚れている者を救うために来られたことを明らかにするためなのです。

神は、あなたを愛しておられます。ひとり子イエス・キリストを汚れた系図の中に放り込んだのには立派な理由があったのです。どんなに汚れた人であっても、キリストを信じる者を救ってご自分の愛する子として迎え入れるためだったのです。

そのためにイエス・キリストをあなたと私に与えられたのです。それほどまでに、神は私たちを愛しておられるのです。

あなたに生ける水を求める欲求が与えられますように祈ります。そのためにもあなたが聖霊について知り、聖霊を与えられる人がどんな方かを知るようになりますようにも祈ります。
さらにわかりやすいメッセージは、下記のリンクから視聴いただくことができます。