2016年12月14日水曜日

復活の力を体験するために



私は、キリストとその復活の力を知り、
またキリストの苦しみにあずかることも知って...
ピリピ人への手紙、310

もしあなたが、復活の力がどのようなものか知っていたのなら、あなたは、復活の力を体験したいと思うはずです。

たとえば、復活の力が次のようなものであったら。いろいろな問題があるときでも、心が休むことができる力であるなら。人間関係で悩んでいるときでも、魂に安らぎを得、喜びが溢れるような力であるなら。一歩も前に進まないような状況の中で、前に進むことができる力であるなら。きっと、あなたは復活の力が欲しいと思うはずです。

この手紙を書いたパウロは、復活の力を得るために以下の3つのことを体験して欲しいと言っています。

1)キリストを体験する 
2)キリストの苦しみにあずかることを体験する 
3)復活の力を体験する

1.キリストを体験する 
なぜ最初にキリストを体験して欲しいのか? それは、あなたの人生が上向いた時も、下向いた時でも、あなたに対するキリストの愛は変わらないことを体験して欲しいからです。そうでなければ、あなたは、自分の人生が上向いた時はキリストがあなたを愛しているけど、人生が下向いた時はあなたを愛していない、という誤解が生まれ、神の愛について自分勝手な解釈をするからです。キリストは、どんなときでもあなたを愛しています。

沸騰したヤカンに触ると火傷します。あなたが超幸せなときでも、絶不調なときでも、あなたの気分に関わらず、ヤカンは熱いのです。こんな話の説明で申し訳ないのですが、あなたにお伝えしたいことは、神の愛は、あなたの体調や感情の浮き沈みによって変わることはあり得ないということです。キリストは、ご自分の命を賭けるほどに、あなたを愛しておられるという事実は永遠に変わることはありません。

キリストを体験するとは、まさにキリストのゆえの神の愛は変化しないことを体験することです。


2.キリストの苦しみを体験する
一方で、残念なニュースがあります。それは、クリスチャンになった後でも、苦しみは存在するということです。それが現実であり、日常生活の中で起こることです。しかし、これはキリストの愛を体験した人が味わうことができる特権でもあります。苦しいことが起こったとしても、神はあなたを愛しておられることを疑わないためにも、まずキリストを体験する必要があるのです。

キリストは、復活の力を味わう前に、十字架で苦しみと死を体験されました。もし順風満帆の日々を過ごしていたのなら、いつまでも死ぬことがないなら、復活する必要はありません。

しかし、なぜキリストが苦しんだのでしょう? そして、なぜユダヤ人の宗教家たちはキリストを迫害し殺したのでしょうか?

パウロは、そのことについて次のように述べています。「肉で生まれたままの者は、霊で生まれた者を迫害する」(ガラテヤ4:30)つまり、神の願いに生きようとすると、まず自分の肉の欲求が反発します。それがゆえに私たちの心は苦しみを覚えるのです。

例えば、嫌な人を赦すとなると、自分の自然な肉の感情は反発を覚えます。たとえあなたが、その人を赦すことができたとしても、その人に敵対している人たちは、あなたのしたことを喜びません。喜ぶどころか、その人を赦したあなたが癪に障り、あなたに敵対し始めるかもしれません。

言い方を変えると、その苦しみとは、聖霊によってキリストに従う苦しみです。 例えば、キリストは「愛しなさい」「赦しなさい」と命じられました。キリストの命令に従うときに、私たちの肉は苦しみます。相性が悪い人を愛し、嫌いな人を赦すことを考えただけで、私たちの感情は苦しみます。一旦、神の助けを得てキリストに従うことができると、こんどは周りの人たちの肉がキリストに従順なしもべに敵対し始めるのです。

キリストが苦しまれたのは、父なる神の御心に従った結果もたらされたものです。キリストは、三回も「この杯を取りのけてください。」と父なる神に願われました。杯は、神の怒りを意味しています。キリストの上に神の怒りが下るのです。その怒りは本来、私たちに向けられたものでした。キリストは、私たちの罪を赦すために、神の怒りが私たちの上に下らないために、十字架ですべての罪を負われました。そのためとはいえ、ご自分の身体が激しい苦痛を体験するのですから、その体験を回避したいと願うのも無理はありません。

できれば苦しむことなしに復活の力だけを手に入れたいと思うのが人情でしょう。私もあなたも、そう思うことがあるはずです。

しかしキリストは、私たちを愛するがゆえに、父なる神の願いに答えられたのです。父なる神は、私たちをご自分の怒りから救って愛する関係に招き入れるために、代わりにキリストを、神の怒りをなだめるための供え物として遣わされました。ここに神の愛があるのです。

これこそが、キリストの苦しみです。神の助けを得て、キリストに従うときに体験するキリストの苦しみを体験する先に、復活の体験が待っているのです。


3.復活の力を体験する
私たちは、みな復活の力を体験したいのではないでしょうか。もし、自分の人生が死んでいるような状態であれば、誰でも復活することを願うのではないでしょうか。

もう一度、復習させてください。1)キリストを体験する。2)キリストの苦しみを体験する。3)キリストの復活を体験する。以上の順番に従って復活の力を体験するのです。

復活するための力は、私たちの内側に存在していません。その力は、神から来るのです。神は、キリストに従がうがゆえに苦しむ状態から、私たちを必ず救い出してくださいます。それこそが、日常生活における復活の力です。どのようにあなたを、苦しい状況から救い出してくださるかは、私たちには分かりません。しかし、神は必ずあなたに復活の力を体験させて救い出してくださいます。

あなたのために祈っています。

ジーザスコミュニティ国分寺

牧仕:桜井 知主夫

2016年10月14日金曜日

心の空洞を埋めるもの

 心の空洞を埋めるもの

「イエス・キリストが、日本に住む人たちにどれだけ必要か!」それに、人々が気づくためには、どうしたらいいのだろう? それについて今に至るまで考えてきたことを分ち合わせてください。

「わたしを信じる者は、腹の底から生ける水があふれ流れ出る」と、キリスト本人が言われました。この生ける水とは、聖霊のことです。この聖霊だけが、あなたの魂に満足をもたらし、魂の空洞を埋めることができると、キリストは言われているのです。もしキリストを信じるなら、聖霊が与えられ、聖霊に満たされ、それだけではなく、聖霊が腹の底から溢れて流れ出るようになるというのが、神の約束なのです。
一方で、私たちは思いや心に満足を覚えたとしても、魂を満足させることはできません。なぜなら、この魂の奥底には空洞があって、神が与える生ける水、つまり聖霊によってだけその空洞は埋まるからです。キリストは次のように言われました。

「この水を飲む者はだれでも、また渇きます。」(ヨハネ4:13)

この言葉を、キリストは、ユダヤ人が差別していたサマリヤ人の女性に言われました。その女性は5回も離婚していました。そして、キリストに出会った時点で、彼女はボーイフレンドと同棲していたのです。彼女は、自分の故郷の町の人からも差別されていました。

明らかに彼女は、自分の魂の空洞を、異性とつき合うことで埋めようとしました。しかし、その空洞は埋まったことは1度もなかったのです。その女性に向かって、キリストは「この水を飲む者はだれでも、また渇く」と言われたのです。

そしてイエス・キリストは、彼女に助け舟を出すように、次のように言われました。「しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」(ヨハネ4:14)

キリストに出会う前の私は、ご多分に漏れず、自分の魂の奥底にある空洞を、キリスト以外のもので埋めようとしていました。しかし、魂の空洞は埋まるどころか、傷口が広がるばかりでした。

ある人たちは、魂の空洞を、自分の学歴や経歴や事業や人生の成功物語で埋めようとします。また、ある人たちは、その空洞を家族や友人や仲間や異性で埋めようとします。さらに、ある人たちは、そこを酒やギャンブルや、薬や麻薬で埋めようとします。

しかし、その空洞は、キリストが約束された生ける水、つまり聖霊以外で埋まることはないのです。しかし、ここに朗報があります。なぜならキリストは次のように言われたからです。

「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」(ヨハネ7:37−38)

私たちみな、正直に、素直になる必要があります。そして、自分の心の奥底になる空洞が満たされているかを顧みる必要があると思います。あなたも私も忙しいのは理解できますが、一瞬でも立ち止まって、次のように質問してみるのがいいと思います。「人間誰もが一回きりの自分の人生、どうせ生きるなら、生ける水がこんこんと湧き出るような人生を送りたい! 私は、そう思っているだろうか?」 それとも、自分なりのやり方で自分の魂の空洞を埋めようとし続けるのでしょうか。

さらに、以下の素朴な質問に、正直に、素直に答えてみてください。自分のこだわりで魂の空洞を埋めようとしてはいないだろうか? 静まって自分の魂を覚えるとき、虚しさを覚えることを繰り返してはいないだろうか?

お金持ちになるための法則を徹底解説している「お金持ちの教科書」というウェブサイトがあります。その著者が、皮肉なことに、お金持ちが満足できない理由を次のように述べています。

「お金持ちになっても十分に満足できない可能性は高い! 事業や投資で成功するためには、尋常ではない水準の努力をする必要があり、場合によっては他のすべてを犠牲にする必要も出てくる。たとえ成果が上がっても、抱える苦労の方が大きかったりするのである。仮に成功して上のステージに上がっても、今度は別の敵や新しい障害が姿を現わしたりする。それに対する戦いは半永久的に続くため、常に多くのストレスを抱えることになる。だが彼らがそれでも前進をやめないのは、凡庸な人生だけは送りたくないと強く思っているからである。これは一種の業(ごう)と呼んでもよい。」

つまり、魂の空洞は満足することはないのです。そこに平和や安心を覚えることはないのです。それが私とあなたが抱える現実なのです。

これは、クリスチャンの人生にも当てはめて言えることです。聖霊を求める代わりに、教会や超教派のイベントにおける運営面での成功に酔うことで、魂の奥底の空洞を埋めようとする場合もあるからです。

それだけでなく、教会や教団的成功、大きな施設や信者数が増加することや、社会的に少々影響を与えているという自負によって、自分たちの魂の空洞を無意識にも満足させようとする場合もあります。または、奉仕までが、人に霊的に仕えることではなく仕事自体に仕えることに成り下がってしまい、実務的目標を達成することで魂の空洞を埋められることと勘違いしてしまう場合もあるからです。

さらに、フェローシップ、キリストにある兄弟姉妹との交わりといいながら、人と触れることや人の温もりに満足を覚えようとして、未信者が居酒屋で人恋しく集うのと何ひとつ変わらないような交わりの中で、魂の空洞を埋めようとする場合すらあります。

これでは、私たちの魂の空洞はいつまでも埋まることはありません。

キリストが言われたことを、もう一度繰り返させてください。「この水を飲む者はだれでも、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」(ヨハネ4:13−14)

私たちが、素直になって魂の空洞が埋まることへの渇きを認めることができたら。自分の魂の叫びに耳を傾けて、あなたの魂に平安を得ることができたら。魂の深いところで休むことができたら。

キリストが言われた別のことばを繰り返します。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」(ヨハネ7:37−38)

イエス・キリストが、あなたにとってどれだけ必要か! そのことに、日本の多くの人々が気づくには、まずクリスチャン自身の腹から、生ける水が溢れ流れる必要があるのではないでしょうか。生ける水によって、魂の空洞を埋め、自分の魂を満たし、聖霊が腹から溢れ流れ出ることを体験しましょう。

その後、キリストを知らない人たちと、私たちの魂の空洞を生ける水で満たす方、生ける水を溢れさせてくださる方、イエス・キリストを分ち合いましょう。私たちの家族や親戚、親友や友人や知人、近所の人は学校関連の人たち、職場や仕事関係の人たち。彼らの魂の空洞は渇いているのです。彼らの渇きを癒す方、イエス・キリストを紹介し、彼らの為に死ぬほど彼らを愛しておられるキリストの愛を分ち合いましょう。

それでも、なかなか、職場や学校や近所の方々とキリストを分ち合えない現実があるのも事実です。それが困難な理由は、一にも二にも、聖霊によって、キリストの愛を分ち合う力がないからです。しかし、キリストは、父なる神が天からその力を与えると言われました。

そこで、イエスは、聖書を悟らせるために彼らの心を開いて、こう言われた。「次のように書いてあります。キリストは苦しみを受け、三日目に死人の中からよみがえり、その名によって、罪の赦しを得させる悔い改めが、エルサレムから始まってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる。あなたがたは、これらのことの証人です。さあ、わたしは、わたしの父の約束してくださったものをあなたがたに送ります。あなたがたは、いと高き所から力を着せられるまでは、都にとどまっていなさい。」(ルカ24:45-49)

聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。 (使徒 1:8 )

その分ち合いを助けてくださる聖霊に頼って、まず、私たちキリストを信じる者の腹から生ける水が溢れ流れることを体験することを求めましょう!

だれでも、どんな人でも、魂の奥底が渇いているなら、その渇きを生ける水で癒すことのできる方、イエス・キリストと、彼のことばと約束を信じましょう。

「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」(ヨハネ7:37−38)

あなたの腹から、生ける水が溢れ流れていきますように! そのような人生をあなたが生きることができますように! 祈らさせていただきます。

主イエスの愛にあって
ジーザス・コミュニティ牧仕
桜井 知主夫

2016年1月26日火曜日

キリストのようになることを目指す(エペソ4章13節)

日曜礼拝メッセージ 1月24日 エペソ4章13節













http://www.calvarykb.org/index.php?option=com_biblestudy&player=0&view=popup&t=1&mediaid=1095&tmpl=component


教会は、各教会が霊的に成長するために仕え合う


1.そのときに、キリストの満ち満ちた姿にまで到達する
2.ひとりでも多くの人が、この歩みに参加している教会は建て上がる
3.このことを考えもしない、また、行動しない人々が集っている教会は成長しな


キリストのようになるために互いに仕え合って、キリストのからだが完成に向かうのを見たい


1.しかし、教えられなければ、そのような教会観を持つことはできない


ぜひお聞きください!

2016年1月25日月曜日

◉シリーズ なぜこの教会にしたの? Vol.11 まりこちゃん


まりこちゃん(関西・教員)

http://www.calvarykb.org/index.php/about-jc/why-jc/far/22-mariko


JCに来たきっかけ

上京して教会を探す中で、近くにJCがあるらしいと聞いて行きました。はじめは教会に入るのに勇気がいりましたが、礼拝の雰囲気はとても良かったです。

JCの何がよかったのか

はっきりと迫ってきました。今まで神の福音は私の中でぼやけていて、信仰はフワフワしていたということに気づかされました。JCに集い、神の愛と希望を現実に知ることができ、励まされました。


なぜJCに決めたのか

JCでは神の生きたことばを味わうことができるからです。リアルな神を感じれば感じるほど、正しく聖書を解釈し、自分の日常の生活に適用することの必要性を感じました。JCでは聖書の丁寧な解き明かしがあり、少しずつ理解を進めながら、日々の生活に適用しようと思うようになりました。

JCの推薦できるところ

JCに来ている人たちは、神の愛で互いに愛し合おうとし、互いに祈り合っているように思います。礼拝後、共に祈る姿に感動しました。気軽に来て、共に祈ること、祈ってもらうことができます。


感想by牧仕

生きたみことば

まりこちゃんは「神の愛と希望を現実に感じることができました」また「生きたことばを味わうことができました」と言っています。そして「神をリアルに感じれば感じるほど、聖書を正しく解釈する必要性を感じた」と言っています。

もし、あなたに親友が与えられたなら、その友だちの言葉を大切にしないでしょうか。誰かが、あなたの大切な親友の言葉を曲げている場に居合わせたら、その親友のために弁護しないでしょうか。

リアルになればなるほど

神がリアルになり、神と親しくなればなるほど、神が言われていることばを大切にするようになります。

あなたの友だちが、あなたについて何かを言っていたら、その内容が気にならないでしょうか? また、親しい友だちが、その人自身について、あなたに分ち合っていたら、その内容に耳を傾けないでしょうか?

もし神の愛と希望をがリアルに感じられたなら、あなたも神の言葉はどういう意味かを知りたくなるはずです。

このブログを読んでくださっているあなたが、神をリアルに感じられるように祈ります。神があなたを御子イエス・キリストのもとへと引き寄せてくださいますように!

そしてあなたが、神のことばを知って、どれだけ神があなたを愛しておられるかを見い出すことができますように! 祈っています。

イエス・キリストの愛にあって
知主夫牧仕