2014年11月24日月曜日

シリーズ なぜこの教会にしたの? Vol.3 小林さん

▷初めて「小林さんがJCに来るきっかけ」を聞いたときに、私は思わず笑ってしまった。なぜなら、小林さんが「教会に連れて行ってください」と頼んでいるのにも関わらず、やまださん(シリーズ Vol.1に登場)は一向に彼女を教会に連れて行く気配がなかったと聞いたからです。小林さんがキリストを信じた経緯を読んでみて、考えれば考えるほど…(続く)


小林 美智子  


http://www.calvarykb.org/index.php/about-jc/why-jc/through-jc/21-michiko-k

JCに来たきっかけ

職場で問題に打ち当たり、いろいろな本を読みあさり、多くのアドバイスをもらいました。しかし逆に混乱してしまい、常に何かに追い立てられている状態が続きました。そんなとき、ある同僚が目にとまりました。彼女はリラックスして自由な感じでしたが、逆に自分は虚勢を張っていました。そんな彼女はクリスチャンでした。彼女 がJCに通っていたので、連れていって欲しいと言いました。しかし彼女には、いっこうに連れて行ってくれる気配がなかったので、さらに自分から頼んで連れて行ってもらいました。(今だから笑えます)

 私は、そこで初めて「人間には神の愛は無くて、罪があること」を聞きました。それまで「頑張ってもできない自分」を責めていた私は、自分に罪があると聞いてなぜかほっとしました。また、「愛が無ければやかましいどらや、うるさいシンバルとおなじです。」(Ⅰコリント13:1)ということを聞いて、「私のことだ!」と思いました。聖書の話を聞き続けているうちに、これが単なるお話や考え方ではなく現実的に迫ってきて、本当なんだと思えてきました。自分ではどうすることもできないから、イエス・キリストが私の罪を負って代わりに十字架で苦しまれて赦してくださったこと、3日の後に復活されて、私を助けてくださっていること、罪の赦しを得させる悔い改めが与えられていること、これらのプレゼントが与えられていることは本当にすごいです。


JCの何がよかったのか 

神のことばが語られ、本当のことを言ってくれて、なおかつ等身大でいられる。互いに励ましながら、神を求め、神の計画が実現されることを求めているとことろです。今でも気持ちが沈んだり不安になったりすることはあります。でも「そんなときは、神に助けを求めればいいんだ」と方向性がはっきりしています。神は変わらない存在で、愛してくださり、悔い改めれば失敗を赦してくださり、助けてくださり、いつも共にいてくださいます。どんな状況でも、24時間365日どこでもその神に祈りで助けを求められる関係を与えてくださって、本当に感謝です。 


なぜJCに決めたのか

 1)神のことば(真理)が語られ、神に応答することが励まされるから。 2)神についてくことを励まし合えるから。


JCの推薦できるところ 

1) 神のことば、真理が語られ、すごく分かりやすい。
2)どこまでいっても恵みということが語られ、自分を作らないで、等身大でいられる。 3)神を仲間とともに追い求めることが励まされる。 


ブロガー感想 

◉感想、その1 ▷小林さんがキリストを信じた経緯を読んでみた。考えれば考えるほど、人の魂が救われるのは神業だと思わされました。しかし一方で、神は不完全である私たちを使われる。それは神が他の人たちをも救いたいからだ。その根拠が聖書の中に書いてある。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世(すべての人)を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネ3:16)神は、ひとり子のキリストさえ与えられた。それは、あなたと私を永遠にご自分の愛の中に引き寄せたいから。神は、不完全な人間を使って、あなたにキリストを知って、信じて、信頼して、この地上での歩みをして欲しいと願っておられるのです。

 ◉感想、その2 ▷「自分に罪があると聞いて、なぜかほっとしました。」by 小林さん。【罪】は、だれの中にもあります。それは、自分と神の善悪の基準がかけ離れていることを指します。例えば、神は敵のために祈りなさい、敵を愛しなさい、と言われる。しかし人間は、敵を憎み敵が不幸になると「ざまあみろ」と秘かに喜ぶ。また神は、「わたしが赦したように赦しなさい」と言われる、しかし人間は「こんなことをした者を赦すことはできない」と心を頑にする。このような善悪の基準の差を、聖書では罪と言います。小林さんは、これがあるとわかって「ほっ」としたのです。私たちは多かれ少なかれみな偽善者です。そのような思いの欠片があるのにも関わらず、自分のことを善い人と思いたい欲求があります。しかし、神のことばを耳にするとき、誰の中にもある【罪】が示されるのです。よい知らせがあります。その罪を神のひとり子であるイエス・キリストが十字架で苦しんで負ってくださったのです。それによって、神があなたを赦すため、また、愛していることを明らかにするためです。 

 ◉感想、その3 ▷「神のことばで本当のことを言ってくれていて、かつ等身大でいられる」by 小林さん。【等身大】とは、自分のことを大きく見せかけたり、卑屈になったりしないということだと思います。私たちは、神の御前にありのままの自分のままで出ることができます。というか、神の御前では何一つ体裁を整えることはできないのです。私たちの心のすべてが、神には裸であり見透かされているのです。だから私やあなたが「等身大」をごま化しても、神にはバレているのです。それならば、最初から等身大でいようと努めた方が賢いでしょう。自分の罪を認めて、赦しと助けを求めて、ありのまま神の御前にでるとき、神は完全な御子イエス・キリストの心へと変え始めてくださいます。

 ◉感想、その4 ▷JCの推薦できるところ? ▷「仲間とともに、神を追い求めることが励まされる」by 小林さん。これは牧仕の私自身が求めていることでもあります。パウロはテモテに宛てて「それで、あなたは、若い時の情欲を避け、きよい心で主を呼び求める人たちとともに、義と信仰と愛と平和を追い求めなさい。」(Ⅱテモ 2:22 )と言っています。これは牧仕ひとりでもできないし、兄弟姉妹がひとりでもできないことです。このパウロの命令を追求していきたい、そのように心から思っています。


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2014年11月20日木曜日

シリーズ 「なぜこの教会にしたの?」Vol.2 ひろあきさん


ひろあき(会社員)

JCに来たきっかけ

やることがなく駅前で漫画を読んでいるとき、「JCでのコンサートに来ませんか?」と招かれたのがきっかけです。当時の私は、生きることの意味が分からなくなっており、現実逃避をしていました。でも、一方ではこのままじゃダメだと心の中で葛藤していました。そんなときに、そのコンサートでイエス・キリストのことを聞き、もしかしたらここに出口があるかもしれないと思い、少しずつJCに行くようになりました。

JCの何がよかったのか

私のしんどい状況に対して、神は何と言われてるのかを聖書を通して根気よく教え続けてくださったことと、たくさんの時間を使って励まし祈り良くし続けてくださったことです。

なぜJCに決めたのか

初めての教会なので、他に移らなかった理由になるかもしれません。初めてメッセージを聞き、半年間キリストのことを聞き続け、ある日突然「キリストが救いだ!」と信じました。それから約10年間、JCは「何がなんでもキリストで一致していこう!」というスタンスが変わりませんでした。「だから、今もこの教会だ!」という確信が与えられています。

JCの推薦できるところ

シンプルに、聖書を教え・愛し合い・キリストをおぼえ・祈りを共にする、不完全だし失敗もするけど、ここからブレずに追求しているところです。


ブロガー感想

若いアメリカ人と2人で、路上で個人伝道をしているときに、JR国分寺駅前でマンガを読んでいた《ひろあき》に出会いました。何度もアメリカ人の彼は「Chizuo、僕には個人伝道の賜物がないんだよ。」と言うので、そのたびに祈りました。彼と一緒に路上で伝道し5日目の午後、再び同じことを言うので、南口の階段に座って祈ってから頭を上げると、視線の先にあったベンチに座ってマンガを読んでいた《ひろあき》がいました。相棒に目で合図すると、彼も何かを感じたのか「ひょっとしたら脈があるかも」という表情をしていました。その日は、ひろあきと一緒に焼き肉を食べに行きました。

それから、何度も一緒に時間を過ごしました。後日に招いたコンサートは、とてもじゃないけれど「ゴスペルコンサート」という題目からは想像もできないほどレベルの低いものでした。しかし《ひろあき》はそのコンサートに現われました。そして《ひろあき》は教会に通い始めたのです。

新しい小さな教会ができることと言えば、みなで祈ることでした。それだけが、当初の私たちにできることでした。今から考えてみれば、それが良かったのだと思います。その後、神はこの教会を祝福してくださり、スケボーや衣料品、アクセサリーとギャラリーを扱う店が与えられました。しかし、当初はお店もなく、英会話クラスも、アートクラブもありませんでした。それでも《ひろあき》はイエス・キリストを信じたのです。そして、今では彼は賛美チームの一員として、賛美をリードしています。

神は、人を通して栄光を現わされますが、人間とは栄光を分ち合われることはありません。どんなときでも、土の器から人を救う力が出たのではなく、神ご自身から救いの力が出ていることを明らかにされたいのです。これは、だれもが手柄を取らないためです。栄光は神のものだからです。

「私たちは、この宝を、土の器の中に入れているのです。それは、この測り知れないが神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかにされるためです。」(Ⅱコリ 4:7)

私たちの方で気をつけることと言えば、神との関係の中で、神が私を呼ばれたことと、信仰によって義(正しい)と認めてくださったことを確認することです。神は、その両者を通過した者に栄光を現わされるのです。

「神はあらかじめ定めた人々をさらに召し、召した人々をさらに義と認め、義と認めた人々にはさらに栄光をお与えになりました。」(ローマ 8:30)

しかし一方で、ベッドの中で横たわってるばかりでは何も起こりません。人間の側で神の願いに応答して動くときに神は働かれるのです。私たちが駅前に路上個人伝道に行かなければ《ひろあき》はキリストを信じることはありませんでした。しかし私たちが動いたとしても、神が栄光を現わされなければ、彼はキリストを信じることはありませんでした。

ひとがキリストを信じるのは、人間業ではないのです。これは100%神業です。ひとがキリストを信じた後に、キリストのような性質に変えられて成長するのも100%神業です。そのことを心の底から信じている者に、神は力を現わされます。人間が、その力を自分のものとして誇らないようにするためです。

そもそも不完全な私たち自身を、100%正しいと認めることは、だれにもできません。100%正しいと認めてくださるのは、すべて神のおかげです。さらに言うと、神が大きな犠牲を支払われたおかげです。イエス・キリストが十字架で私たちの罪のために、ひどく苦しまれたおかげなのです。

前にも述べたようにベッドの中で横たわっていても、神は人を救いキリストのように成長させる力を与えられはしません。だれであっても求めて一歩踏み出す者に、力を現わされるのです。そして神に栄光を帰する人に、神は栄光を現わし続けられるのです。

素朴に神を求め、導きを求めてみてください。「私を、あなたのことがばで養なれ、整えられる教会へと導かれますように!」と。


主イエスの恵みと平安が、あなたの上に豊かにありますように!
ジーザス・コミュニティ国分寺 11月20日
牧仕 桜井 知主夫

http://www.calvarykb.org/index.php/about-jc/why-jc/through-jc/24-hiroaki

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2014年11月19日水曜日

シリーズ 「なぜこの教会にしたの?」Vol.1 やまださん


次の4つの質問:1)この教会に来たきっかけ? 2)何がよかったのか? 3)なぜここに決めたのか? 4)この教会の推薦できるところ? を通して、やまださんが「なぜこの教会にしたの」に耳を傾けてみました。

あなたは「なぜその教会にしたの?」でしょうか。この人たちの分ち合いに耳を傾けるときに、あなたの心の中で神の導きがさらに確かなものになりますように。そして、あなたが住んでいる地域でキリストのいのちが溢れる交わりに加えられ、神の恵みと平安が豊かに与えられますように! http://www.calvarykb.org/index.php/about-jc/why-jc/far/36-yamada

JCに来たきっかけ

子どものときにキリストを信じたけど、その後、教会には行きませんでした。ですからそれ以上、神のことは何も分かりませんでした。そんなとき、高校の同級生が夏休みにイエス・キリストを信じたのです。その子が教会に行くことを励ましてくれて教会に行き始めました。その後、洗礼を母親の通っていた教会で受けました。

今から分ち合うことは不思議な話ですが、その教会で賛美をしているときに「次の教会は、国分寺」と示されたのです。そのとき、電車の路線図の国分寺駅に丸をつけたのを、今でもハッキリと覚えています。国分寺にある教会に行くことになると確信しました。(この時点で、JCは存在していません。)

JCの何がよかったのか

以前は、教会に通い始めたのにも関わらず「神は意地悪で、怖くて、あれもだめ、これもだめ」というイメージを持っていました。しかし、JCに来たときに「神は良い方で、聖書は分厚いけど、神が一貫して言われたいことは『わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい』という一言に尽きる」ことが分かりました。


なぜJCに決めたのか

神が良い方と、わかったから。


JCの推薦できるところ

1)聖書を分かりやすく教えてくれるところ。
2)いろいろな人たちと、なんでも、祈り合えるところ。
3)祈り合ったり、話し合ったりする中で、自分の問題を分かち合っても、そのことをゴシップしたり、うわさ話のネタにされたりすることがないところ。
4)その問題を神に助けを求めるように励まし合う人たちが多いところ。



ブロガー感想

あるとき(そのときは全く知らなかったのですが)やまださんの高校の同級生のお母さんに頼まれて、そのお嬢さんにクリスチャンの夏のキャンプを紹介しました。その高校生は、その時点でキリストを信じていませんでした。そこで彼女がキャンプに参加する前に「キリストを信じられるように」と祈りました。すると、彼女はキリストを信じてキャンプから戻ってきました。▷夏のクリスチャン・キャンプを紹介して本当に良かったと思いました。

その上に、彼女とやまださんが同級生だったとは不思議なこともあるものです。彼女が、やまださんに教会に行くことを励ましたので、やまださんはお母さんの通っていた教会に行くようになりました。そして、賛美しているときに「今度は国分寺の教会に行くようになる」と、神から語られたのだというのですから、これまた不思議なこともあるものです。今年になって、やまださんがそのことを教えてくれたので、私は「なんでもっと前に教えてくれないのですか」と言いました。(笑)

「次は国分寺の教会」と、神が彼女に語られたとき、私たちの教会ジーザス・コミュニティ国分寺は存在していませんでした。神は、私たちがどの教会に集うのかということにも関心を持っていてくださる神であることを聞くと安心します。

そもそも、ヨハネがコメントしているように「神は、実に、ひとり子をお与えになるほどに、私たちを愛しておられます。それは御子イエス・キリストを信じる者が一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためです。」つまり、私たちは、ひとり子さえお与えになる神を知り、信じ、信頼したのです。この方は、私たちを養い整えるために、あなたの最善を考えておられないわけがありません。

そしてパウロも次のように書いています。「私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。」ローマ 8:32 神は、あなたのことを、心にかけてくださり、思っていてくださり、考えていてくださいます。

一方で、その神に近づくのは、あなたがすることです。そうすれば、神はあなたに近づいてくださいます。どんなことであっても、求めることです。もちろん教会や交わりのことも。そうすれば、あなたのことを深く思っていてくださる神が、あなたの必要を満たしてくださいます。

素朴に、神に求めてみてください。「私を、あなたのことばで養われ整えられる教会へと導いてください。」と。



主イエスの恵みと平安があなたの上に豊かにありますように!
ジーザス・コミュニティ牧仕
桜井 知主夫

PS 素朴なコメントや質問、歓迎します

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