2015年1月15日木曜日

シリーズ なぜこの教会にしたの? Vol.7もえちゃん


もえちゃん (バレエダンサー)


JCに来たきっかけ


私がこの教会に来るきっかけになったのは、知主夫さんがメッセージをしている家庭集会でした。その頃の私は、仕事に困難を覚えて身体が重く、心のバランスも崩れていました。そこでメッセージを聞いていくうちに、心に隠れているプライドやグッと握り閉めているこだわりが大きいことに気づかされました。「自分勝手な基準や思い煩いによって疲れてしまっていたんだと…。」「もう、自分の力ではできないから、背伸びをせずに、ありのままの自分で神に力を求めてみよう!!」「もっと神のことばを聞き続け、自分の内側をクリアにしたい」と思いJCに来ました。


JCの何がよかったのか

イエスキリストをかしらとした一人一人が、からだの一部として歩んでいることが、とても伝わってきました。賛美のとき、手を広げ神様に心から捧げているのを見て涙が溢れました。



なぜJCに決めたのか

人の言葉ではなく、神のことばで祈り励まし合うことができるからです。また、みんながイエスキリストのからだの一部として、父なる神を信じ、聖霊の力を求めて歩んでいるからです。



JCの推薦できるところ

礼拝やバイブルスタディの他に、季節ごとの外でのフェローシップやシングルウィメンズやヤング社会人、ファミリーフェローシップなど交わりのときが沢山あるので、とても励まされます。





感想by牧仕



プライドについて

もえちゃんは、次のように言っています。

「そこでメッセージを聞いていくうちに、心に隠れているプライドやグッと握り閉めているコダワリが大きいことに気づかされました。」


「もう、自分の力ではできないから、背伸びをせずに、ありのままの自分で神に力を求めてみよう!!」


「もっと神のことばを聞き続け、自分の内側をクリアにしたい」と思いJCに来ました。



ここからは、牧仕の私の感想ですが、


プライドや自分勝手なコダワリが働くと、自分の等身大からかけ離れて、背伸びした自分を演じることになります。


自分の等身大を、ありのままに認める。これは、簡単なようで大変難しい。というか不可能です。自分の中にマイナスというか汚いものがない人間など存在しないからです。


生きていれば、否定的なことを言われたり、否定的な評価をされることがあります。それを押し返すように、肯定的な「良いとこ探し」をするように促されている自分がいるのではないでしょうか。


「良いとこ探し」を止めてしまったら、自分は終わってしまうという恐怖心に駆られて、否定的な評価から逃れるように「良いとこ探し」に邁進する。当然、私たちのプライドは、「良いとこ探し」を応援します。


しかし、冷静になって考えてみれば、どんな人格者でも怒ったり、妬んだり、恨んだり、高慢だったり、性的欲求をコントロールできなかったり、えこひいきをしたり、見せかけたりします。そうです、どんな人であっても、以上の点で完全な人など存在しません。


現実は、そうであるのにも関わらず、私たちは良い人間を装うとする。私たちのプライドは、思いっきり装うとするのを応援します。


しかし装う自分を、自他ともに受け入れようとすると、仮装の下にある本来の自分との差が大きくなり、心休まることはありません。逆に、その状態から逃れるようにして、プライド満たし続けて、自分を安定させようとします。


以上のようなことを繰り返しても、魂に安らぎは訪れることは決してないのです。


しかし神は、汚い偽装した「良い者」が暴かれたとしても、そのありのままの私たちを、キリストにあって心から受け入れてくださいます。


キリストは、次のように言われました。「だれでも疲れて重荷を負っている者は、わたしのもとに来なさい。わたしがあなたを休ませてあげよう。」


また、次のように言われました。「わたしは優しくへりくだっているから、わたしのくびきを負ってわたしから学びなさい。そうすれば、魂にやすらぎがきます。」


キリストは、私たちの汚さや、完全な性質から外れているもの、つまり罪を十字架で苦しんで負われました。この方にあって、私たちはありのままに、神に受けいられるのです。


そして、下駄を履かせて背伸びしたところからではなく、ありのままの情けない状態から成長するように助けてくださるのです。神は、自分や他者を苦しめる悪いこところを、「そのままでよい」とは言われません。逆に、その悪いところを赦し、きよめて、あるいは癒して、成長させてくださいます。


神が、ありのままに受け入れてくださるとは、以上のような意味で、受け入れてくださるのです。そのように受け入てくださったことを知ったとき、心の底から安らぐのです。「ああ、よかったありのままに受け入れられるって、こういうことだったのか」と。



人の言葉でなく、神のことばで励まし合い、聖霊の力を求めている



もえちゃんは、次のように言っています。

「人の言葉ではなく、神のことばで祈り励まし合うことができるからです。また、みんながイエスキリストのからだの一部として、父なる神を信じ、聖霊の力を求めて歩んでいるからです。」



ここからは、牧仕の私の感想ですが、



人の言葉には限界があります。なぜなら、相手のことを完全に理解している人など存在しないからです。しかし、お互いに理解しようと努めるのは当然のことです。


それでも、完全に他者を理解できる人など存在しません。しかし一方で、神は、私たちを完全に理解されています。


その方のことばは、私たちの魂や霊や心を強め養い育てるのです。この方のことばで、お互いに励ますのが、当然といえば当然のことですが、一番励まされることになります。








▽他の人たちがどうしてJCにしたのか?を読むことができます。



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  ではなくて、イエス・キリストを。



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