2014年12月16日火曜日

シリーズ なぜこの教会にしたの? Vol. 5 おどちゃん

 おどちゃん(米軍士官妻・看護士)

http://www.calvarykb.org/index.php/about-jc/why-jc/far/38-odo


JCに来たきっかけ

JCの方の友だちの紹介で、JCを知り行きました。

JCの何がよかったのか

知主夫さんのメッセージが、毎回、毎回、基本に戻っていることがよかったです。主イエスがなんのために十字架で死なれたのか? なぜ私を救いに来られたのか? 罪とは何か? 恵とは何か? 神の愛や神の命令は何か? 悔い改めとは何か? 以上の基本が語られていました。それらを忘れがちで、自己本意になりやすい私にとって、毎回、以上の基本を思い出させて頂いたことがよかったです!

なぜJCに決めたのか

教会の中でさえ、人間関係に問題が起こります。以前の私は「同じ聖書を学び、同じ愛について多く語られるのに、なぜこんなにも問題があるのか?」と考えさせられていました。「神が言われる【愛】とは何なのか?」と、祈り求めていました。

多くのJCの人たちが一致して、神が命令する【愛】を祈り求めていました。みなの対応や話し方に、人間くさい表面的な愛でなく、神の愛を感じました。JCの多くの人たちが主イエスにあって一致しているときに、聖霊が働いているのを感じました。この教会だったら、たとえ問題があったとしても成長できると思うことができました。そして、その思い通りに参加し続けることができました。

JCの推薦できるところ

JCの推薦できるところは、教え、祈り、交わりが、バランスとれているとろです。


感想by牧仕

◉感想その1


「メッセージが、毎回、毎回、基本に戻っていることがよかった」と、おどちゃんは言っています。


聖書には、ミルクと固形物のことばの二種類があります。ペテロは、聖書のことばのミルクを飲めば、成長し、救いを得られると言っています。「生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、みことばの乳を慕い求めなさい。それによって成長し、救いを得るためです。」(Ⅰペテロ2:2)

次に固形の食物について、ヘブル人への手紙を書いた人は、次のように言っています。「しかし、堅い食物はおとなの物であって、経験によって良い物と悪い物とを見分ける感覚を訓練された人たちの物です。」(ヘブル5:14)

実は、聖書を読むときに、まずミルク、そして固形物の両者を摂取していくことが、クリスチャンの成長には欠かせません。ミルクは、おどちゃんが言っているように、基本的な真理です。大切なことなので、彼女の言葉を繰り返させてください。

「主イエスがなんのために十字架で死なれたのか? なぜ私を救いに来られたのか? 罪とは何か? 恵とは何か? 神の愛や神の命令は何か? 悔い改めとは何か?」 

「以上の基本が(JCでは)語られていました。それらを忘れがちで、自己本意になりやすい私にとって、毎回、以上の基本を思い出させて頂いたことがよかったです!」

だれもが、基本を繰り返して思いめぐらす、つまり十分に純粋なミルクを飲んで成長していく必要があります。次に、その延長線上で、神のことばの固形物を食べる必要もあるのです。クリスチャンの人生において問題や苦しみがあるのは当然のことです。旧約聖書も新約聖書も、人間が遭遇する問題や苦しみについて書いています。

イスラエルの王様、ユダヤ人のヒーローであるダビデ本人の問題や罪についても、はっきりと書かれています。また、主イエス・キリストの弟子たちの問題や罪についても例外ではありません。さらに驚くことに、新約聖書の手紙と黙示には、教会の問題や罪についてもはっきりと書かれているのです。

クリスチャンも不完全な者たちの集まりです。その不完全さを責めて反発し合うのではなく、お互いキリストの姿へ工事中の身として、互いの工事を助け合うために賜物が与えられるというのが聖書の約束です。

「あなたがたは御霊の賜物を熱心に求めているのですから、教会の徳を高めるために、それが豊かに与えられるよう、熱心に求めなさい。」(Ⅰコリント 14:12)

教会とは、キリストの身体です。そして、私たちクリスチャン一人一人が、キリストの身体の部分なのです。つまり、聖霊の賜物を求めるのは自分自身を高めるためではなく、他の身体の部分の徳(キリストの性質)が高められるために、その賜物を求めるのです。

それにも関わらず、お互いに不完全なので、キリストに仕え、互いに仕え合う中でも、残念ながら問題は起こります。

霊的に成長するための固形物食料について、ヘブル人の手紙を書いた人は次のように言っています。「堅い食物はおとなの物であって、経験によって良い物と悪い物とを見分ける感覚を訓練された人たちの物です。」(ヘブル5:14)何が悪いのかをはっきりと見分けるとき、その悪い状態に対処し、良い状態へと回復させ、その状態を保たせるときに必要な神のことばが、堅い食物です。

神との基本的な愛する関係が土台になっていないときは、堅い食物はとても堅くて消化できないでしょう。また、神と、神の民に仕える経験が少ないときには、聖書の固形物の言葉は消化不足になるでしょう。

おどちゃんは、「教会の中でさえ、人間関係に問題が起こります。」と言っています。

イエス・キリストは、まったく罪のないお方でしたが、キリストのからだである教会は不完全な人間の集まりです。その不完全な人間同士が、完全を目指してお互いに助け合うのが、キリストのからだ、つまり教会のひとつの大きな目的です。

そのことが理解できた上でなければ、堅い食物は消化するのは困難です。
逆に、そのことが理解できれば、堅い食物を消化する準備ができているのです。

感想その2

おどちゃんは、教会について、以下のように言っています。

「同じ聖書を学び、同じ愛について多く語られるのに、なぜこんなにも(教会の中に)問題があるのか?」と考えさせられていました。「神が言われる【愛】とは何なのか?」と、祈り求めていました。」

「この教会だったら、たとえ問題があったとしても成長できると思うことができました。そして、その思い通りに参加し続けることができました。」



私たちの教会も、多くの教会同様、人間関係に問題は起こります。逆に、全く人間関係に問題が起こらない教会があるのでしょうか? 恐らく、全く人間関係に問題が起こらない教会は存在しないのではないでしょうか。それは、互いに集まる人間があなたと私を含めて完全ではないことに原因があります。

読者の皆様も1つ以上教会に参加されたことがある方がいらっしゃると思います。私は比較的多くの教会に出席し見る機会が与えられた者だと思います。日本でも、約30ほどの教会の交わりに参加させていただき、アメリカでも10くらいの教会に参加させていただいたことがあります。それでも少ない事例の中で、思ったことですが、完全な教会など存在しません。牧仕もリーダーも不完全ですし、役員も、長老も、小リーダーも、兄弟姉妹もみな不完全な者の集まりです。

この不完全な者たちの集まりの中で起こる問題を解決するために、お互いに確認したいことが2点あります。

まず最初に、基本中の基本のことですが、不完全な者な罪人のためにイエス・キリストが十字架で苦しみ代わりに死んでくださったのです。このキリストにおいてのみ、私たちは罪が赦され、父なる神に子どもとして受け入れられるのです。だからこそ、「あなたがた(私たち)もキリストが赦してくださったように互いに赦し合いなさい」と命じられています。

自分が悪い、自分の罪が分からない者が多くいる教会や群れやグループでは、必然的に赦されたことが分からない者が多くいることになります。自分の罪が赦されたことが理解できない者が多ければ多いほど、赦し合うのは困難です。問題の多くは、自分が赦されたように互いに赦し合うときに解消へと向かいます。



 お互いに親切にし、心の優しい人となり、神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい。(エペソ4:32)



次に、不完全な者が、神に助けられて完全を目指すのが、教会の基本です。この基本についての理解が与えられている者が多ければ多いほど、問題は少なくなります。しかし逆に、この基本についての理解が、神から与えられている人が少なければ少ないほど、人間関係の問題は多くなります。

完全な方は、イエス・キリストだけです。この方の心のように各自の心が変えられるために、また、そのために互いに仕え合うように、神は私たちを呼ばれました。

あなたと私たちの教会にも、以下のような人々が与えられますように!


1)キリストがあなたと私を赦されたように、互いに赦し合う人々

2)キリストが霊的な成長を助けるために仕えられたように、互いに仕え合う人々

以上のような人々が多く与えられますように!



「私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」(Ⅱコリント 3:18)




さらに違う方々の分ち合いを読みたい方は、いかのリンク先からお読みください。

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2014年12月1日月曜日

シリーズ なぜこの教会にしたの? Vol.4 やまちゃん


やまちゃん(会社員)
http://www.calvarykb.org/index.php/about-jc/why-jc/through-jc/25-yama

JCに来たきっかけ

会社の仕事や人間関係に思い悩んでいたとき、会社の同僚のクリスチャンがJCを紹介してくれたことがきっかけで通い始めました。

JCの何がよかったのか

1)牧仕が、初めて福音を聞く僕にも分かるように教えてくれたことです。福音を知ることによって、なぜキリストを信じ、主と呼ぶことができるのかが、はっきりと判りました。JCで神の愛について学ぶことで、聖霊の働きを知ることができました。

2)JCの兄弟姉妹に愛があり、祈りの中でも、行動の中でも、互いに仕えあい、成長を励まし、助け合う光景を目にして、とても良い教会だと感じました。

3)賛美をするとき、JC全員でキリストをほめたたえるという一体感が表われています。JCで兄弟姉妹と賛美している時間は、本当に神との関係を近くに感じることができます。

JCの推薦できるところ

1)まったくキリストの知識がなくても、牧仕やJCの兄弟姉妹が愛を持って、キリストについて教えてくれます。キリストのことを知らない方も、知っている方もお互いに成長して行ける教会だと思います。

2)聖書を創世記から黙示録まで順を追って学べるので、初めての方でも神の全体の計画を知ることができます。

3)牧仕が聖書から学んだことを、普段の生活の中で具体的にどう当てはめて実践していくのかを、わかりやすく説明してくれるので、とっても理解しやすいです。

ぜひ、JCで一緒にキリストについて学び、神の家族として共に歩んでみませんか


コメントbyぼくし(牧仕)


【JCに来たきっかけ】


JCを通して救われた男性が勤務している同じ会社で、やまちゃんは働いていました。その男性が、やまちゃんにキリスト分ち合い、やまちゃんはキリストを求めるようになりました。その彼が、山ちゃんにJCを紹介したので来るようになりました。


【JCの何がよかったのか】


「牧仕が、初めて福音(よい知らせ)を聞く僕にも分かるように教えてくれた」と、やまちゃん。

◉悪い知らせ、その1

その前に、悪い知らせがあります! 自分の努力で神に受け入れてもらうことはできません。どれだけ、能力があっても、権力があっても、苦労して努力していても、性格がよくて人格者でも、神はあなたを受け入れてはくれません。神に受け入れられないもの=罪(神の善悪の基準からかけ離れた自分勝手な善悪と、それがもたらした多くの失敗や罪々)は、誰の中にもあるので、神はそのままではあなたを受け入れてはれません。これは悪い知らせです。

罪とは【的外れ】という意味です。神の善悪の基準と、私とあなたの善悪の基準はかけ離れているのです。それを罪と言います。例えば、私たち人間は、兄弟を愛し、一方で敵を憎むのは当然と考えます。しかし神は、敵を愛し、あなたの敵を祝福しなさいと言っています。また、私たち人間は、殺すのは悪いが、腹を立てるのは誰でもやると考えます。しかしキリストは、腹を立てる者はさばかれる、と宣言されています。

福音(よい知らせ)とはなんでしょうか? よい知らせとは、「神が、あなたを、祝福する者として、
受け入れてくださる!」ことに関係しています。しかも、どうやって受け入れてくださるかに関係しています。神は、キリストにあって、あなたと私を受け入れてくださるのです。でもどうやって? 


◉よい知らせ、その1

神は、キリストの完成された働きを受け入れられたのです。あなたと私を受け入れるための大事業を完成されたイエスを信じる者を受け入れてくださるのです。完成された働き? それは、十字架で私とあなたの「受け入れられないもの=罪」を負われて、私たちの罪となってくださったことを指します。イエスは、十字架上で息を引き取る直前、「完成した!」と言われました。イエスは、あなたが責められるべきものを、すべて(全部)負ってくださったのです。それは、あなたを永遠に受け入れるためです。

▷イエスが十字架であなたの【神に受け入れられないもの=罪】(神の善悪の基準からかけ離れた自分勝手な善悪と、それがもたらした多くの失敗や罪々)を負ってくださり、罪となってくださったり、代わりにあなたを赦してくださったことを信じたら、聖霊が与えられます。あなたの心の奥底から生ける水が溢れ出すのです。喜びや平安が溢れてくるのです。

◉よい知らせ、その2

さらなるグッドニュースがあります! それは、私とあなたの罪(=受け入れられない原因)を十字架で苦しんで負われたイエス・キリストが、三日後に、よみがえられたことです。イエスは、よみがえらえて今日も生きておられます。

神は、その働きを完成してくださったイエスを信じる者を赦してくださるのです!しかも、あなたが、その働きを成し遂げられたイエスを信じたら、そのあなたに、イエスの正しさを着せてくださるのです。神は、正しくない者を、キリストのゆえに、正しいと認めてくださるのです。

「私たちの主イエスを死者の中からよみがえらせた方を信じる私たちも、その信仰を義とみなされるのです。」(ローマ 4:24)と書いてある通りです。



▷よい知らせによって与えられるもの
さらにグッドニュースがあります。神は、あなたがイエス・キリストを信じたら、神の子として永遠に迎えてくださるのです。

▷この地上においても、あなたのために死なれ、そしてよみがえられた方、この方に従って生きるとき、神はあなたをご自分の愛する子どもとして、その生き方を助けてくださるのです。

◉よい知らせ、その3

これらすべては恵みによるのです。私たちの努力や能力や権力によて、神に受け入れてもらうことはできません。しかし、「私とあなたを受け入れる大事業」を完成されたキリストを信じるのであれば、その信仰がよしと認められ、あなたは神の子として受け入れらるのです。いったん受け入れられて関係が与えられた後は、父なる神に求めると、父である神は恵み深くしてくださいます。

ひとり子イエスを始めとして、それに加えてすべてよいものを受け取るのにふわさしくない、私とあなたですが、それにも関わらず神が恵み深いがゆえに、神は私たちを祝福してくださるのです。祝福してくださるの理由は、神の性質にだけにあります。イエス・キリストを通して神に近づく者を、神は祝福してくださるのです。

神が、関係を回復するために、すべてを持ち出してくださったのです。そう、ひとり子であるイエス・キリストでさえ、私とあなたのために与えてくださったのです。であれば、神の願にかなった歩みをするために、すべてのものを与えてくださらないわけがありません。

◉よい知らせ、その4

あなたが、この情報を聞いて、今までは自分勝手な方向に生きていたけれど、これからはキリストに従って生きていきたい。今まで、神を無視して、ずいぶん自分勝手に生きていたけれど、

1)その罪(神の善悪の基準からかけ離れた自分勝手な善悪と、それがもたらした多くの失敗や罪々)を認めます。

2)そして、この罪をすべて、キリストが十字架で負ってくださったことを受け入れ、神が私を赦してくださったことを信じます。

3)キリストは三日後によみがえられたことを信じます。

イエスは、今日も生きておられ、私たちのためにとりなしておられます。私たちが死んだ後、私たちは新しいからだが着せられて、キリストとともに永遠に生きることになることになるのです。



この良き知らせであるキリスト。この方をさらに知りたくありませんか。
このイエス・キリストについて、さらに聞いてみませんか。

聞いてみたい方は、下記のリンクをクリックしてみてください。




コメントや素朴な質問を歓迎しています。



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2014年11月24日月曜日

シリーズ なぜこの教会にしたの? Vol.3 小林さん

▷初めて「小林さんがJCに来るきっかけ」を聞いたときに、私は思わず笑ってしまった。なぜなら、小林さんが「教会に連れて行ってください」と頼んでいるのにも関わらず、やまださん(シリーズ Vol.1に登場)は一向に彼女を教会に連れて行く気配がなかったと聞いたからです。小林さんがキリストを信じた経緯を読んでみて、考えれば考えるほど…(続く)


小林 美智子  


http://www.calvarykb.org/index.php/about-jc/why-jc/through-jc/21-michiko-k

JCに来たきっかけ

職場で問題に打ち当たり、いろいろな本を読みあさり、多くのアドバイスをもらいました。しかし逆に混乱してしまい、常に何かに追い立てられている状態が続きました。そんなとき、ある同僚が目にとまりました。彼女はリラックスして自由な感じでしたが、逆に自分は虚勢を張っていました。そんな彼女はクリスチャンでした。彼女 がJCに通っていたので、連れていって欲しいと言いました。しかし彼女には、いっこうに連れて行ってくれる気配がなかったので、さらに自分から頼んで連れて行ってもらいました。(今だから笑えます)

 私は、そこで初めて「人間には神の愛は無くて、罪があること」を聞きました。それまで「頑張ってもできない自分」を責めていた私は、自分に罪があると聞いてなぜかほっとしました。また、「愛が無ければやかましいどらや、うるさいシンバルとおなじです。」(Ⅰコリント13:1)ということを聞いて、「私のことだ!」と思いました。聖書の話を聞き続けているうちに、これが単なるお話や考え方ではなく現実的に迫ってきて、本当なんだと思えてきました。自分ではどうすることもできないから、イエス・キリストが私の罪を負って代わりに十字架で苦しまれて赦してくださったこと、3日の後に復活されて、私を助けてくださっていること、罪の赦しを得させる悔い改めが与えられていること、これらのプレゼントが与えられていることは本当にすごいです。


JCの何がよかったのか 

神のことばが語られ、本当のことを言ってくれて、なおかつ等身大でいられる。互いに励ましながら、神を求め、神の計画が実現されることを求めているとことろです。今でも気持ちが沈んだり不安になったりすることはあります。でも「そんなときは、神に助けを求めればいいんだ」と方向性がはっきりしています。神は変わらない存在で、愛してくださり、悔い改めれば失敗を赦してくださり、助けてくださり、いつも共にいてくださいます。どんな状況でも、24時間365日どこでもその神に祈りで助けを求められる関係を与えてくださって、本当に感謝です。 


なぜJCに決めたのか

 1)神のことば(真理)が語られ、神に応答することが励まされるから。 2)神についてくことを励まし合えるから。


JCの推薦できるところ 

1) 神のことば、真理が語られ、すごく分かりやすい。
2)どこまでいっても恵みということが語られ、自分を作らないで、等身大でいられる。 3)神を仲間とともに追い求めることが励まされる。 


ブロガー感想 

◉感想、その1 ▷小林さんがキリストを信じた経緯を読んでみた。考えれば考えるほど、人の魂が救われるのは神業だと思わされました。しかし一方で、神は不完全である私たちを使われる。それは神が他の人たちをも救いたいからだ。その根拠が聖書の中に書いてある。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世(すべての人)を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネ3:16)神は、ひとり子のキリストさえ与えられた。それは、あなたと私を永遠にご自分の愛の中に引き寄せたいから。神は、不完全な人間を使って、あなたにキリストを知って、信じて、信頼して、この地上での歩みをして欲しいと願っておられるのです。

 ◉感想、その2 ▷「自分に罪があると聞いて、なぜかほっとしました。」by 小林さん。【罪】は、だれの中にもあります。それは、自分と神の善悪の基準がかけ離れていることを指します。例えば、神は敵のために祈りなさい、敵を愛しなさい、と言われる。しかし人間は、敵を憎み敵が不幸になると「ざまあみろ」と秘かに喜ぶ。また神は、「わたしが赦したように赦しなさい」と言われる、しかし人間は「こんなことをした者を赦すことはできない」と心を頑にする。このような善悪の基準の差を、聖書では罪と言います。小林さんは、これがあるとわかって「ほっ」としたのです。私たちは多かれ少なかれみな偽善者です。そのような思いの欠片があるのにも関わらず、自分のことを善い人と思いたい欲求があります。しかし、神のことばを耳にするとき、誰の中にもある【罪】が示されるのです。よい知らせがあります。その罪を神のひとり子であるイエス・キリストが十字架で苦しんで負ってくださったのです。それによって、神があなたを赦すため、また、愛していることを明らかにするためです。 

 ◉感想、その3 ▷「神のことばで本当のことを言ってくれていて、かつ等身大でいられる」by 小林さん。【等身大】とは、自分のことを大きく見せかけたり、卑屈になったりしないということだと思います。私たちは、神の御前にありのままの自分のままで出ることができます。というか、神の御前では何一つ体裁を整えることはできないのです。私たちの心のすべてが、神には裸であり見透かされているのです。だから私やあなたが「等身大」をごま化しても、神にはバレているのです。それならば、最初から等身大でいようと努めた方が賢いでしょう。自分の罪を認めて、赦しと助けを求めて、ありのまま神の御前にでるとき、神は完全な御子イエス・キリストの心へと変え始めてくださいます。

 ◉感想、その4 ▷JCの推薦できるところ? ▷「仲間とともに、神を追い求めることが励まされる」by 小林さん。これは牧仕の私自身が求めていることでもあります。パウロはテモテに宛てて「それで、あなたは、若い時の情欲を避け、きよい心で主を呼び求める人たちとともに、義と信仰と愛と平和を追い求めなさい。」(Ⅱテモ 2:22 )と言っています。これは牧仕ひとりでもできないし、兄弟姉妹がひとりでもできないことです。このパウロの命令を追求していきたい、そのように心から思っています。


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2014年11月20日木曜日

シリーズ 「なぜこの教会にしたの?」Vol.2 ひろあきさん


ひろあき(会社員)

JCに来たきっかけ

やることがなく駅前で漫画を読んでいるとき、「JCでのコンサートに来ませんか?」と招かれたのがきっかけです。当時の私は、生きることの意味が分からなくなっており、現実逃避をしていました。でも、一方ではこのままじゃダメだと心の中で葛藤していました。そんなときに、そのコンサートでイエス・キリストのことを聞き、もしかしたらここに出口があるかもしれないと思い、少しずつJCに行くようになりました。

JCの何がよかったのか

私のしんどい状況に対して、神は何と言われてるのかを聖書を通して根気よく教え続けてくださったことと、たくさんの時間を使って励まし祈り良くし続けてくださったことです。

なぜJCに決めたのか

初めての教会なので、他に移らなかった理由になるかもしれません。初めてメッセージを聞き、半年間キリストのことを聞き続け、ある日突然「キリストが救いだ!」と信じました。それから約10年間、JCは「何がなんでもキリストで一致していこう!」というスタンスが変わりませんでした。「だから、今もこの教会だ!」という確信が与えられています。

JCの推薦できるところ

シンプルに、聖書を教え・愛し合い・キリストをおぼえ・祈りを共にする、不完全だし失敗もするけど、ここからブレずに追求しているところです。


ブロガー感想

若いアメリカ人と2人で、路上で個人伝道をしているときに、JR国分寺駅前でマンガを読んでいた《ひろあき》に出会いました。何度もアメリカ人の彼は「Chizuo、僕には個人伝道の賜物がないんだよ。」と言うので、そのたびに祈りました。彼と一緒に路上で伝道し5日目の午後、再び同じことを言うので、南口の階段に座って祈ってから頭を上げると、視線の先にあったベンチに座ってマンガを読んでいた《ひろあき》がいました。相棒に目で合図すると、彼も何かを感じたのか「ひょっとしたら脈があるかも」という表情をしていました。その日は、ひろあきと一緒に焼き肉を食べに行きました。

それから、何度も一緒に時間を過ごしました。後日に招いたコンサートは、とてもじゃないけれど「ゴスペルコンサート」という題目からは想像もできないほどレベルの低いものでした。しかし《ひろあき》はそのコンサートに現われました。そして《ひろあき》は教会に通い始めたのです。

新しい小さな教会ができることと言えば、みなで祈ることでした。それだけが、当初の私たちにできることでした。今から考えてみれば、それが良かったのだと思います。その後、神はこの教会を祝福してくださり、スケボーや衣料品、アクセサリーとギャラリーを扱う店が与えられました。しかし、当初はお店もなく、英会話クラスも、アートクラブもありませんでした。それでも《ひろあき》はイエス・キリストを信じたのです。そして、今では彼は賛美チームの一員として、賛美をリードしています。

神は、人を通して栄光を現わされますが、人間とは栄光を分ち合われることはありません。どんなときでも、土の器から人を救う力が出たのではなく、神ご自身から救いの力が出ていることを明らかにされたいのです。これは、だれもが手柄を取らないためです。栄光は神のものだからです。

「私たちは、この宝を、土の器の中に入れているのです。それは、この測り知れないが神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかにされるためです。」(Ⅱコリ 4:7)

私たちの方で気をつけることと言えば、神との関係の中で、神が私を呼ばれたことと、信仰によって義(正しい)と認めてくださったことを確認することです。神は、その両者を通過した者に栄光を現わされるのです。

「神はあらかじめ定めた人々をさらに召し、召した人々をさらに義と認め、義と認めた人々にはさらに栄光をお与えになりました。」(ローマ 8:30)

しかし一方で、ベッドの中で横たわってるばかりでは何も起こりません。人間の側で神の願いに応答して動くときに神は働かれるのです。私たちが駅前に路上個人伝道に行かなければ《ひろあき》はキリストを信じることはありませんでした。しかし私たちが動いたとしても、神が栄光を現わされなければ、彼はキリストを信じることはありませんでした。

ひとがキリストを信じるのは、人間業ではないのです。これは100%神業です。ひとがキリストを信じた後に、キリストのような性質に変えられて成長するのも100%神業です。そのことを心の底から信じている者に、神は力を現わされます。人間が、その力を自分のものとして誇らないようにするためです。

そもそも不完全な私たち自身を、100%正しいと認めることは、だれにもできません。100%正しいと認めてくださるのは、すべて神のおかげです。さらに言うと、神が大きな犠牲を支払われたおかげです。イエス・キリストが十字架で私たちの罪のために、ひどく苦しまれたおかげなのです。

前にも述べたようにベッドの中で横たわっていても、神は人を救いキリストのように成長させる力を与えられはしません。だれであっても求めて一歩踏み出す者に、力を現わされるのです。そして神に栄光を帰する人に、神は栄光を現わし続けられるのです。

素朴に神を求め、導きを求めてみてください。「私を、あなたのことがばで養なれ、整えられる教会へと導かれますように!」と。


主イエスの恵みと平安が、あなたの上に豊かにありますように!
ジーザス・コミュニティ国分寺 11月20日
牧仕 桜井 知主夫

http://www.calvarykb.org/index.php/about-jc/why-jc/through-jc/24-hiroaki

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2014年11月19日水曜日

シリーズ 「なぜこの教会にしたの?」Vol.1 やまださん


次の4つの質問:1)この教会に来たきっかけ? 2)何がよかったのか? 3)なぜここに決めたのか? 4)この教会の推薦できるところ? を通して、やまださんが「なぜこの教会にしたの」に耳を傾けてみました。

あなたは「なぜその教会にしたの?」でしょうか。この人たちの分ち合いに耳を傾けるときに、あなたの心の中で神の導きがさらに確かなものになりますように。そして、あなたが住んでいる地域でキリストのいのちが溢れる交わりに加えられ、神の恵みと平安が豊かに与えられますように! http://www.calvarykb.org/index.php/about-jc/why-jc/far/36-yamada

JCに来たきっかけ

子どものときにキリストを信じたけど、その後、教会には行きませんでした。ですからそれ以上、神のことは何も分かりませんでした。そんなとき、高校の同級生が夏休みにイエス・キリストを信じたのです。その子が教会に行くことを励ましてくれて教会に行き始めました。その後、洗礼を母親の通っていた教会で受けました。

今から分ち合うことは不思議な話ですが、その教会で賛美をしているときに「次の教会は、国分寺」と示されたのです。そのとき、電車の路線図の国分寺駅に丸をつけたのを、今でもハッキリと覚えています。国分寺にある教会に行くことになると確信しました。(この時点で、JCは存在していません。)

JCの何がよかったのか

以前は、教会に通い始めたのにも関わらず「神は意地悪で、怖くて、あれもだめ、これもだめ」というイメージを持っていました。しかし、JCに来たときに「神は良い方で、聖書は分厚いけど、神が一貫して言われたいことは『わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい』という一言に尽きる」ことが分かりました。


なぜJCに決めたのか

神が良い方と、わかったから。


JCの推薦できるところ

1)聖書を分かりやすく教えてくれるところ。
2)いろいろな人たちと、なんでも、祈り合えるところ。
3)祈り合ったり、話し合ったりする中で、自分の問題を分かち合っても、そのことをゴシップしたり、うわさ話のネタにされたりすることがないところ。
4)その問題を神に助けを求めるように励まし合う人たちが多いところ。



ブロガー感想

あるとき(そのときは全く知らなかったのですが)やまださんの高校の同級生のお母さんに頼まれて、そのお嬢さんにクリスチャンの夏のキャンプを紹介しました。その高校生は、その時点でキリストを信じていませんでした。そこで彼女がキャンプに参加する前に「キリストを信じられるように」と祈りました。すると、彼女はキリストを信じてキャンプから戻ってきました。▷夏のクリスチャン・キャンプを紹介して本当に良かったと思いました。

その上に、彼女とやまださんが同級生だったとは不思議なこともあるものです。彼女が、やまださんに教会に行くことを励ましたので、やまださんはお母さんの通っていた教会に行くようになりました。そして、賛美しているときに「今度は国分寺の教会に行くようになる」と、神から語られたのだというのですから、これまた不思議なこともあるものです。今年になって、やまださんがそのことを教えてくれたので、私は「なんでもっと前に教えてくれないのですか」と言いました。(笑)

「次は国分寺の教会」と、神が彼女に語られたとき、私たちの教会ジーザス・コミュニティ国分寺は存在していませんでした。神は、私たちがどの教会に集うのかということにも関心を持っていてくださる神であることを聞くと安心します。

そもそも、ヨハネがコメントしているように「神は、実に、ひとり子をお与えになるほどに、私たちを愛しておられます。それは御子イエス・キリストを信じる者が一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためです。」つまり、私たちは、ひとり子さえお与えになる神を知り、信じ、信頼したのです。この方は、私たちを養い整えるために、あなたの最善を考えておられないわけがありません。

そしてパウロも次のように書いています。「私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。」ローマ 8:32 神は、あなたのことを、心にかけてくださり、思っていてくださり、考えていてくださいます。

一方で、その神に近づくのは、あなたがすることです。そうすれば、神はあなたに近づいてくださいます。どんなことであっても、求めることです。もちろん教会や交わりのことも。そうすれば、あなたのことを深く思っていてくださる神が、あなたの必要を満たしてくださいます。

素朴に、神に求めてみてください。「私を、あなたのことばで養われ整えられる教会へと導いてください。」と。



主イエスの恵みと平安があなたの上に豊かにありますように!
ジーザス・コミュニティ牧仕
桜井 知主夫

PS 素朴なコメントや質問、歓迎します

http://www.calvarykb.org/index.php/about-jc/why-jc/far/36-yamada


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2014年10月10日金曜日

腹の底から溢れてくるもの


やだね〜腹の底から苦いものが溢れてくる人は!

教会に通っていても、洗礼を受けた後でも、あいからわず腹から苦い言葉が溢れてくる人たちがいます。実は、かく言う私がそうでした。クリスチャンの両親のもとで生まれ育ちましたが、その環境に慣れているだけで、キリストが私の罪を赦すために苦しんでくださったことを素直に受け入れてはいませんでした。その頃の私は、キリストと彼の愛を信じて従う気もないのにも関わらず、心は苦いまま、たまに教会環境に出入りしていました。


腹の底から聖霊が溢れるようになる?!

イエス・キリストは次のように言われました。「わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心(直訳【腹】)の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」そしてヨハネは以下のように説明しています。「これは、イエスを信じる者が後になってから受ける御霊のことを言われたのである。」(ヨハネ7:38-39 )

もし、聖霊が腹の底から溢れ流れてきたら、苦い言葉は出て来ないはずです。そのことについてヤコブは次のように言っています。「 賛美とのろいが同じ口から出て来るのです。私の兄弟たち。このようなことは、あってはなりません。泉が甘い水と苦い水を同じ穴からわき上がらせるというようなことがあるでしょうか。」(ヤコブ3:10)  

キリストが、私たちの罪や咎めのために苦しまれたのを感謝して受け入れた後に、のろいや苦い思いが腹から溢れることはあってはならないはずです。しかし、自分の意志の力や根性だけでは、私とあなたの心は変えることはできないのです。


だれも、自分の力で私たちの陰険な心を変えることはできない!

上記の言葉を聞いたら、恐らく「そんなことはない!」と、反発する人もおられるかと思います。しかし預言者エレミヤは、神からのことばを預かり、次のように宣言しました。「 人の心は何よりも陰険で、それは直らない。だれが、それを知ることができよう。」(エレミヤ17:9 )

予め言ったように、再び言いますが、人間の力では自分の苦々しい思いを消すことは不可能です。しかし逆に、その苦々しさが悪いと認めてキリストのもとに持って行くのであれば、神はその罪を赦してきよめてくださいます。ヨハネが次のように言っている通りです。 「もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」(1ヨハネ1:9) 


腹の底からキリストの心が溢れ流れるようになる!

そして、逆に、聖霊が腹から溢れたらどうなるのでしょうか? 聖霊は、キリストの心を知らせる方です。私たちの心の内側からは、キリストの心が生じることは決してあり得ないのですが、神は私たちの心の外側から聖霊によって、キリストの心を注ぎ与えてくださるのです。

パウロは、そのことについて次のように言っています。「御霊を受けている人は、すべてのことをわきまえますが、自分はだれによってもわきまえられません。いったい、『だれが主のみこころを知り、主を導くことができたか。』ところが、私たちには、キリストの心があるのです。」(1コリント2:15 -16)私たちは、主の思いを知ることも、主を導くことも決してできませんが、神はキリストの心を聖霊によって与えてくださるのです。


聖霊がキリストの心、神の愛を注いでくださる

この聖霊にこそ希望があります。パウロは次のように言っています。「この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。」(ローマ5:5 )明らかに、神の愛、キリストの心は私たちの内側にはありません。私たちの心は不完全なゆえに自己弁護に走りやすく陰険なのです。

しかし、聖霊が腹から溢れてくるとき、キリストの心が溢れ、神の愛が溢れ流れて出るのです。私は、自分の苦々しさが悪いと認めて赦され、きよめられてきました。そして、聖霊の助けによって、キリストの心が溢れ流れ出る体験を何度も何度も与えていただいています。神が、私を支え、生かしてくださっていることを心から感謝しています。

この苦々しかった者を、喜んで生きるようにしてくださった神、天の父を、イエス・キリストによって、ほめたたえます!





2014年8月12日火曜日

サムエル・ラム牧仕―地上での旅人であり寄留者


サムエル・ラム牧仕1924104日 – 201383日)


彼がフェリーに乗って香港島へ行くときに、彼の目の前で日本海軍が空爆を行なった。彼の本「Bold as Lamb=小羊のように大胆に」(邦訳「夜深く、日近く」)の中で、彼はそのように語っています。


中国共産党によって、1955年から57年、また1958年から78年の合計20年間、彼は監獄に収監されていました。悲しいことに彼が2回目に出所したとき、すでに彼の妻であるハンナさんは天に召されていたのです。


そのような逆境と迫害の中で、ますますキリストに拠り頼み、彼の性質はキリストの性質に変えられていきました。


その後、彼は聖書の神のことばを順々と解き明かし、多くの人たちが所狭しと彼の講解説教を聞きにビルの一室にある集会室に集まってきました。そのため、大勢の人たちの体重の重量を支えるために何度も鉄骨を補強しなければならりませんでした。



中国共産党による迫害の中でも、彼は多くのキリストの羊を神のことばで養い、神の愛で世話をしました。


           (サムエル牧仕左から二人目、筆者右端)


1995年にカルバリ・チャペル・コスタメサのボブ・ヘイグ宣教牧仕に、サムエル牧仕が仕えていた教会に連れて行ってもらいました。

それから3年後の1998年に、再びこのクリスチャンの模範のひとりであるサムエル・ラム牧仕にお会いする機会が与えられたのです。自分が連れて行ってもらい意味のある機会が与えられたように、私もボブ牧仕のの模範にならい、副牧仕をしていた教会から二人の男性を中国に連れて行きました。


サムエル牧仕との別れ際に、彼に向かって天を指差して、また天でお会いしましょうと合図を送ると、彼も天を指差して二回ほどにこやかに指を上下させて「また会いましょう」と喜びに満ちた顔で別れの挨拶をしてくださいました。


そのとき私は、「この人は日本人の私であろうとも差別せずに受け入れてくれるんだ」と、彼を通しての神の愛を強く感じました。私も、聖霊によって肉であるナショナリズムを越えて、神の国の一員として人に接したいと心から思わずにはいられません。


アブラハムを先頭に、信仰の先駆者たちは「地上では旅人であり寄留者であることを告白していたのです。...彼らはさらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです」(ヘブル1113+16節)


私たちの国籍は天にあります。この地上においても、いつか神の家に帰るまで、さらに天国の王であるイエスに仕えたいと思わずににはいられません。

この素晴らしいサムエル牧仕との出会いを与えてくださった、父なる神に感謝します。

2014年7月1日火曜日

本当の意味の幸福は、的をはずれて生きていないときにこそある


「氷点」(三浦綾子)について思わされたことを、彼女の言葉を引用しながらお伝えします。

原罪 ”ゲンザイ” 自己子チューの根っこにある淋しさ=原罪/『氷点』は現在(いま)に何を語るか。

と『氷点』が人の心を大きく揺るがせたのは、そのテーマである人間の持つ「原罪」を訴えたからである。いま、生きにくい世の中にあって「人はいかに生きるか」が見つめ直されているなかで、「原罪」の持つ意味を真正面からわかりやすく紐解くとともに、現代におきているさまざまな事象との関連を見つめる。(氷点50周年ガイドブック・三浦綾子文学記念館)

「小説(氷点)を書きたかったのは、本当の意味の幸福は、的をはずれて生きていないときにこそある、ということを言いたくて書いたのです。」(三浦綾子・信仰と文学)

彼女は、代表作である「氷点」を通して、原罪(罪)について訴えたのである。この作品は、自己中心に生きて、神がどのように生きて欲しいかなど理解しない生き方では不幸であることを訴えている。的をはずれて生きる=罪の中を生きると必ず不幸になる。心の底で幸せ(喜びで満たされる)のは、的を外れて生きていないときこそ訪れる。

三浦綾子さんは、とても悪い人でした。(かくゆう私もとても悪い人でした。)彼女は、同時に二人の人と婚約し、また、病床にいたときは、元婚約者が違う女性と結婚した後も、元彼との逢瀬を頻繁に楽しんでいるような人でした。自分がしたことについて、彼女はのちに以下のようなことを書いています。(三浦綾子・信仰と文学)

「私がもし第三者なら、きっと昔の婚約者とあっているこの女を責めたであろう。しかし、自分のこととなると、なんの痛みも感じないのである。」

「その頃、ある牧師にこんなことを言われた。彼はまず、新約聖書のローマ人への手紙5章を読んでくださった。『ひとりの人によって、罪がこの世に入り、また罪によって死が入ってきたように、こうしてすべての人が罪を犯したので、死が全人類に入り込んだのである。』『もし病原菌があなたの血液の中に発見されたらどうします。どんなにか驚いてすぐに医者に駆けつけることでしょう。しかし、罪があることを知っても、神のところへは行かないものです。』」

「この聖句と、先生のことばによって、自分の中に罪が病原菌のように入り込んでいることを、実感として私は感じさせられた。」

「すべての人間の心に根深く巣食い、罪の根をはびこらせるもの、それは、自分こそ正しいと思い自分自身を神とすることにある。」

「みんなが正しいと思っている。」

「だから、私たちは、人をさばくなと言われても、一日だって人を悪く思わずにはいられない。平気で人の悪口を言う。自分も同じことをしながら、自分は罪を犯したことのないような顔をして、人を責めている。」

真剣に、自分の心の中をのぞきもむなら、私たちは、本当に思い上がった姿をしている自分に、ふと気がつくに違いない。正しいと思っているから、思い上がるのだ。

「私は小説「氷点」の中で、あの少女陽子の姿の中に、この「自分を正しい」とした姿を描いてみた。陽子はその遺書の中で、こう書いている。『いままで、どんなにつらいときでも、じっと耐えることのできましたのは、自分は決して悪くないのだ、自分は正しいのだ、無垢だという思いに支えられていたからのなのした。』なんという傲慢な言葉であろう。人の目には、どんなに正しい人間にみえようと、どんなに良い人間に見えようと、私たち人間には、こんな大言を吐けるわけがないのである。この陽子の姿勢の中に、人間のもつ原罪を書いてみたいと思ったのである。」

「もう90歳を過ぎた信仰の先輩が、いつか私に言った。『人間というものは、底知れなく悪いものです。』その嘆きを込めた一言は、私の胸を打った。いやえぐったといった方がよい。それは他に対して発した言葉ではなく、この先輩が、ご自身に向けて発した言葉だったからである。…「人間というものは、底知れなく悪いものです。と、嘆くことのできるのは、本当に神を知り、神の前の罪深い己を知っているということなのだろう。」

私たちも常に、この方のように神を見つめ、神の光によって、本当に己の罪を知りたいものである。それが私たちの真の救いに関わることだからである。

 詩篇51:1-7
 神よ。御恵みによって、私に情けをかけ、あなたの豊かなあわれみによって、私のそむきの罪をぬぐい去ってください。どうか私の咎を、私から全く洗い去り、私の罪から、私をきよめてください。まことに、私は自分のそむきの罪を知っています。私の罪は、いつも私の目の前にあります。私はあなたに、ただあなたに、罪を犯し、あなたの御目に悪であることを行いました。それゆえ、あなたが宣告されるとき、あなたは正しく、さばかれるとき、あなたはきよくあられます。ああ、私は咎ある者として生まれ、罪ある者として母は私をみごもりました。ああ、あなたは心のうちの真実を喜ばれます。それゆえ、私の心の奥に知恵を教えてください。ヒソプをもって私の罪を除いてきよめてください。そうすれば、私はきよくなりましょう。私を洗ってください。そうすれば、私は雪よりも白くなりましょう。


▷逆に、彼女が言うように、「真の救い」とはどれほどありがたいものだろう! 主をほめよ!
Ⅰヨハネ4:9−10 
神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです

真正面から罪を見つめることに弱いと、それに比例して、罪の赦し、神の子としての関係も弱くなる。

そんなことでいいのだろうか?

決して、そんなことでいいわけがない。




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2014年6月24日火曜日

三浦光世・綾子さんから、励まされたこと...

結婚二十五周年記念に、北海道旭川に行き、三浦綾子文学記念館にて、三十五年振りに光世さんと交わる機会が与えられた。 そのことを、心から神に感謝しています。 そのとき、さらに詳しく三浦綾子さんについて知ることができ、二つのことを思わされました。






1.三浦ご夫妻が、よく聖書を読まれていたこと(新約聖書入門)

「どんな人であっても、一生に一度や二度、
うめくような悲しみや苦しみにあうことがあるのではないか。
もし、そうしたときに、聖書を知っていたならば、
その苦しみや悲しみは、単なる苦しみや悲しみに終わらず、
 もっと別の意味を持つかもしれない。」

 と、綾子さんが言われていたように、聖書(神のことば)にあって人生に向き合っておられたことを知って励まされました。


イエス・キリストは「別の意味」を持つことについて、 また、私たちが物事に対して思い違いすることについて次のように言われています。 

「そんな思い違いをしているのは、聖書も神の力も知らないからです。」
(マタイ22章29節 )

 私も、もっと聖書と神の力を知りたいと、心から願っています。



2.キリストを証ししようとされていたことです。(三浦綾子・信仰と文学) 

「文学をする人はよく信仰にとらわれないで書け、
というようなことをおっしいますけれど、
私は自分をキリストの宣伝屋だと思いたいのです。
ひとりでも多くの人にイエスさまのことを伝えられればそれでいいのです。」

「私は信者であるがゆえに『証詞』を書きたかったのである。
...私が『証詞』の文字を書き続けることのできるよう、
私と、多くの魂のために祈っていただきたいと願っている 」

と、綾子さんが書いているように、キリストを証しされていたことに共感を覚えた。そこがブレなかったからこそ、多くの読者に訴えかける内容が尽きることがなかったのだと思う。そして、神は、ご自分が彼女に与える内容を、他者に伝えるこを助けられたのだと思う。


イエス・キリストは、ご自分を証しすることについて次のように言われている。 

「しかし、人の前でわたしを知らないと言うような者なら、
 わたしも天におられるわたしの父の前で、そんな者は知らないと言います。」
(マタイ10章33節)

 私も、もっとイエス・キリストを証ししたいと、心から願っています。