2017年1月31日火曜日

神の恵みが分かると、心が安らぐ

 コロサイ人への手紙1章 
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今週から、私たちの教会ではコロサイ人への手紙を学んでいます。私が日曜礼拝においてメッセージした内容に対して、自分で感想を分ち合うのも一風変わっているのは自覚しています。しかし、神が語られたことを書き留めておくことは大切なことなので、この文章を書く過程で明らかになることを願っています。

エペソから直線で西に200キロの山間に、コロサイという町がありました。決して大きな都市ではありませんでしたが、この地方では織物染めで有名な町でした。パウロがこの手紙を書いた後に、大きな地震で壊滅したとも言われています。

パウロは、この町には行ったことがありませんでした。それでは、どのようにしてパウロがコロサイのクリスチャンに宛てて手紙を書くことになったのでしょうか? それは、1章7節に登場するエパフラスが、ローマの牢獄に収監されていたパウロを訪問することから始まったと考えられています。

コロサイのクリスチャンに対する挨拶の中で、「忠実な兄弟たち」というフレーズがあります。コロサイの手紙前半を読むと、「キリストがどういう方か?」ということが一番のテーマであることが理解できます。コロサイの兄弟たちは、聖書の理解と実践において忠実だったと思われます。

コロサイの町は、ガラテヤ地方に隣接しています。ガラテヤ地方の数々の教会は、「律法主義」、または「ユダヤ主義」によって、キリストを信じる信仰に悪影響が及んだ過去がありました。「異邦人は、まず割礼を受けてユダヤ人になってから福音を信じることができる」というような歪んだ教えを持ち込んだユダヤ人クリスチャンたちがいたのです。

それ以外にも、パウロたちが宣べ伝えていないようなキリストを持ち込んだ偽教師たちがいました。エパフラスは、そのような悪影響に対して、どのように対処したらよいかを、パウロと相談したのです。そこで、パウロはコロサイの兄弟姉妹たちに対して、この手紙を書くことにしたのです。

パウロは、「ときどき」ではなく「いつも」コロサイのクリスチャンのために祈っていました。エパフラスも、彼らのためにいつも祈っていました。私たち肉体を着ている人間は、ある人たちのために思いはあっても、その人たちの救いや霊的成長を助けることはできません。ただ祈ることが、相手の救いや成長のために何かをする始まりとなります。パウロとエパフラスは、コロサイのクリスチャンのために祈り、とりなしていたのです。

コロサイのクリスチャンのために祈っていたからこそ、彼らのことで神に感謝することができました。たとえ、パウロが彼らに会ったことがなかったとしても、神の御前でとりなしていたからこそ、彼らが成長したときに神に感謝することができたのです。「私たちは、いつもあなたがたのために祈り、私たちの主イエス・キリストの父なる神に感謝しています。」(1:3)私たちも、祈っている人たちのことは、神に感謝することができます。そんなコロサイの兄弟姉妹の成長を感謝していたパウロは、彼らに恵みと平安があるように祈っていました。

ご存知かもしれませんが、パウロは手紙を書くときは、いつでも「恵みと平安」という挨拶から始めます。彼は、必ず、恵みと平安という順番で挨拶を始めます。平安と恵みという順番で書いたことは一度もありません。なぜなら、恵みが理解できるからこそ、平安を味わうことができるからです。

パウロは、恵みは、すぐれて豊かだと宣言しています。どうしたら、それが分かるのでしょうか? その質問に対してパウロは、父なる神の大きな愛によって恵みを理解できると、エペソ人への手紙の中で明らかにしています。前述したエパフラスは、エペソで福音を聞いたと考えられています。パウロは、二年間にわたり毎日、エペソにあるツラノの講堂において、神のことばである福音を語っていました。そこでエパフラスは、キリストの福音に触れたのでしょう。

その当時、パウロがエペソで何を語ったのかは、エペソ人への手紙の内容によって知ることができます。パウロはその手紙の中(2:7)で、次のように解き明かしています。彼の趣旨を要約すると次のようになります。

1) 私たちは罪と罪過の中で、神との関係は死んでいた
2) しかし、あわれみ豊かな神は、大きな愛で、その関係を生かしてくださった
3) その大きな愛とは、イエス・キリストが、私たちの罪のために苦しまれ死んでくださったこと
4) キリストのおかげで、私たちに罪の赦しが与えられた
5) キリストを信じる者は、神との関係が生きるようにしてくださった
6) 神は、ひとり子を与える大きな愛によって、神の恵みはすぐれて豊かであることを明らかにされた
7) あなたに対する神の恵みはすぐれて豊かであることを、神は知って理解して欲しいと望まれている

つまり、神の恵みはすぐれて豊かであることを、最も理解することができるのは、キリストによるのです。神の恵みを理解するとき、キリスト以下の存在では、それがどんなものであれ、キリストというプレゼントほどに神の恵みが優れて豊かであることを理解することできないのです。なぜなら、私たちに、神のひとり子であるキリストをプレゼントされる理由は見つからないからです。王様の一人息子が、悪い領民のために犠牲になって死ぬということは、当たり前のことではありません。有り難いことです。

悪い領民の中には、良いプレゼントを受ける理由は見つかりません。それどころか、彼らは、良いプレゼントを受けるに相応しくも、似つかわしくも、資格もないのです。それにも関わらず良いプレゼントを与えくださる理由は100%与えてくださる神の側にあります。その理由は、父なる神にあるのです。神の性質が恵み深いからです。その神の恵み深い性質は、豊かであり、すぐれているのです。そのことは、ひとり子キリストを与えられた大きな愛によって証明されているのです。

「それは、あとに来る世々において、このすぐれて豊かな御恵みを、キリスト・イエスにおいて私たちに賜る慈愛によって明らかにお示しになるためでした。」(エペソ2:7)この箇所は、少々難しい文章ではありますが、「神のすぐれて豊かな恵みは、キリストによって明らかに示しました!」と言っているのです。

パウロは、ローマのクリスチャンに宛てて書いた手紙の中で、次のように言っています。「私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。」(ローマ8:32

こんな私でも、神はキリストに拠って良くしてくださることを理解すると、私の心は安心します。もう、私の中に神から良くされる理由を捜さなくてもよいのです。私の中には見つからなくてもいいのです。なぜなら、神がよくしてくださる理由は、神の中にあるのですから。

もう一度、おさらいさせてください。神が私とあなたに良くしてくださる理由とは、神が恵み深いからです。そして、その恵みは、私とあなたに対して、すぐれていて豊かにあるのです。そのことは、神が私とあなたの罪を赦し、神との関係が回復させるたに、神のひとり子イエス・キリストを与えてくださったことによって明らかになった!と、パウロは解き明かしているのです。

良いものを受け取るのに相応しくない私やあなたにでも、良くしてくださることを知って理解すると、心は安心し、魂に平安が来るのです。だからこそ、パウロは手紙の冒頭で、「あなたがたに恵みと平安がありますように」という挨拶から手紙を始めているのです。

あなたに、神の恵みと平安がありますように!

ジーザス・コミュニティ牧仕
桜井 知主夫



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2017年1月24日火曜日

心と思いが、神の平安で守られるために!


                     http://www.calvarykb.org/index.php/words-to-live/268-2017-01-16-16-04-38



あなたがたの願い事を神にしっていただきなさい。
そうすれば、人のすべてにまさる神の平安が、
あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。
ピリピ人への手紙、4章6〜7節


パウロは、私たちは思い煩う瞬間はあることを認めた上で、思い煩いの中に沈んで行かないために、逆に、心と思いに平和を得るために、次のようにアドバイスしています。

1)まずキリストだけが理由で、神の御前に出られることを感謝しなさい。
2)神と話し合う中で、「何をどうして欲しいのか」を明らかにしなさい。
3)そして、あなたの思い煩いを「こうして欲しいです。」と願いなさい。

そうすれば、神の平安が、あなたと私の心と思いを守るというのが、神の約束です。

1)まずキリストのおかげで、神の御前に出られることを感謝しなさい。
思い煩っているときに、感謝をすることは困難です。しかし、どんなときでも神の御前に出られることを感謝することはできます。

なぜなら、神が私たちをあわれんでくださったからです。私とあなたは永遠に神の御前に出ることができない者でした。それは、私たちが自分勝手だからです。私たちが、自分勝手な善悪の基準にこだわって生きるときに、神の完全な善悪の基準からは外れているのです。神は、赦しなさい、愛しなさいと言われますが、私たちは、神が願われているように神に従うことはありません。そのような私たちの見当外れの生き方に対して、神は怒っておられるのです。そんな私たちは、神の御前で何かを頼めるどころか、御前に出ることすらできません。

聖書は一貫して、神があなたを愛する子どもとして永遠に引き寄せたいと言っています。しかし一方で、あなたが見当違いによって犯して来た態度や言動に対しては、神は怒りを発しておられるとも言っています。この矛盾から、私たち人間を救うために、神は御子イエスを十字架に遣わされたのです。

キリストが、十字架の上で、神の怒りをなだめるために供え物となられたのです。そして、完全に神の怒りをなだめてくださいました。私たちは、神の愛する子どもとして安心して神の御前に出ることができるのです。そこに神の愛があるのです。

このような神の愛に触れるとき、私たちはどんな状況でも感謝することができます。パウロは、キリストの福音を宣べ伝えたゆえに牢獄に入れられていました。彼は、そのような環境でも神に感謝をささげてから、祈ることができたのです。

私たちも、キリストの十字架の愛を思うとき、どんなときでも感謝を捧げるときができます。神の愛する子どもとして、私たちが神の御前に安心して出るために、神はひとり子さえも惜しまずに死に渡してくださったのです。この父なる神に感謝して祈りを始めめることは、どんな状況でもできるのです。

2)神と話し合う中で、「何をどうして欲しいのか」を明らかにしなさい。
私たちが思い煩っているときには、自分の考えがまとまらないのは私だけでしょうか。何を、どこから、どのように考えたらよいのかさえも分からないことが、しばしばあります。

そんなときでさえ、神は助けてくださいます。パウロは、次のように書いています。
御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。(ローマ8:26)

つまり、祈り方でさえ分からないけれど、いったん祈り始めると信仰者の内側に住んでおられる聖霊が、神との対話を助けてくださるというのです。そして、祈る者の内側でうめいてくださり、何をどのように考えたら良いのかも、何をどのように願ったらよいかも教えてくださるのです。
ローマ人への手紙の8章27節で、パウロは次のように続けています。
人間の心を探り窮める方は、御霊の思いが何かをよく知っておられます。なぜなら、御霊は、神のみこころに従って、聖徒のためにとりなしをしてくださるからです。
つまり、祈り始めると、聖霊が私たちの思いを助けてくださり、神の心と調和した願いは何かを理解させてくださるのです。何をどのように願えばよいかを神は私たちの心に教えてられます。そして、それを願うことを神は待っておられるのです。

3)そして、あなたの思い煩いを「こうして欲しいです。」と願いなさい。
パウロは、ピリピに住むクリスチャンに向けて書いた手紙の中で、【祈り】と【願い】を明確に分けています。祈るだけではなく、願いなさいと勧めているのです。
祈る中で、聖霊があなたの祈りを助けてくださり、神の願いと調和した願い、つまり、何をどのようにして欲しいかも明らかにしてくださいます。その願いを、祈りの中で「こうして欲しいです」と、神に願うのです。

そうすれば、人のすべてにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。

あなたのために祈っています。 
ジーザスコミュニティ国分寺

牧仕:桜井 知主夫