2016年10月14日金曜日

心の空洞を埋めるもの

 心の空洞を埋めるもの

「イエス・キリストが、日本に住む人たちにどれだけ必要か!」それに、人々が気づくためには、どうしたらいいのだろう? それについて今に至るまで考えてきたことを分ち合わせてください。

「わたしを信じる者は、腹の底から生ける水があふれ流れ出る」と、キリスト本人が言われました。この生ける水とは、聖霊のことです。この聖霊だけが、あなたの魂に満足をもたらし、魂の空洞を埋めることができると、キリストは言われているのです。もしキリストを信じるなら、聖霊が与えられ、聖霊に満たされ、それだけではなく、聖霊が腹の底から溢れて流れ出るようになるというのが、神の約束なのです。
一方で、私たちは思いや心に満足を覚えたとしても、魂を満足させることはできません。なぜなら、この魂の奥底には空洞があって、神が与える生ける水、つまり聖霊によってだけその空洞は埋まるからです。キリストは次のように言われました。

「この水を飲む者はだれでも、また渇きます。」(ヨハネ4:13)

この言葉を、キリストは、ユダヤ人が差別していたサマリヤ人の女性に言われました。その女性は5回も離婚していました。そして、キリストに出会った時点で、彼女はボーイフレンドと同棲していたのです。彼女は、自分の故郷の町の人からも差別されていました。

明らかに彼女は、自分の魂の空洞を、異性とつき合うことで埋めようとしました。しかし、その空洞は埋まったことは1度もなかったのです。その女性に向かって、キリストは「この水を飲む者はだれでも、また渇く」と言われたのです。

そしてイエス・キリストは、彼女に助け舟を出すように、次のように言われました。「しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」(ヨハネ4:14)

キリストに出会う前の私は、ご多分に漏れず、自分の魂の奥底にある空洞を、キリスト以外のもので埋めようとしていました。しかし、魂の空洞は埋まるどころか、傷口が広がるばかりでした。

ある人たちは、魂の空洞を、自分の学歴や経歴や事業や人生の成功物語で埋めようとします。また、ある人たちは、その空洞を家族や友人や仲間や異性で埋めようとします。さらに、ある人たちは、そこを酒やギャンブルや、薬や麻薬で埋めようとします。

しかし、その空洞は、キリストが約束された生ける水、つまり聖霊以外で埋まることはないのです。しかし、ここに朗報があります。なぜならキリストは次のように言われたからです。

「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」(ヨハネ7:37−38)

私たちみな、正直に、素直になる必要があります。そして、自分の心の奥底になる空洞が満たされているかを顧みる必要があると思います。あなたも私も忙しいのは理解できますが、一瞬でも立ち止まって、次のように質問してみるのがいいと思います。「人間誰もが一回きりの自分の人生、どうせ生きるなら、生ける水がこんこんと湧き出るような人生を送りたい! 私は、そう思っているだろうか?」 それとも、自分なりのやり方で自分の魂の空洞を埋めようとし続けるのでしょうか。

さらに、以下の素朴な質問に、正直に、素直に答えてみてください。自分のこだわりで魂の空洞を埋めようとしてはいないだろうか? 静まって自分の魂を覚えるとき、虚しさを覚えることを繰り返してはいないだろうか?

お金持ちになるための法則を徹底解説している「お金持ちの教科書」というウェブサイトがあります。その著者が、皮肉なことに、お金持ちが満足できない理由を次のように述べています。

「お金持ちになっても十分に満足できない可能性は高い! 事業や投資で成功するためには、尋常ではない水準の努力をする必要があり、場合によっては他のすべてを犠牲にする必要も出てくる。たとえ成果が上がっても、抱える苦労の方が大きかったりするのである。仮に成功して上のステージに上がっても、今度は別の敵や新しい障害が姿を現わしたりする。それに対する戦いは半永久的に続くため、常に多くのストレスを抱えることになる。だが彼らがそれでも前進をやめないのは、凡庸な人生だけは送りたくないと強く思っているからである。これは一種の業(ごう)と呼んでもよい。」

つまり、魂の空洞は満足することはないのです。そこに平和や安心を覚えることはないのです。それが私とあなたが抱える現実なのです。

これは、クリスチャンの人生にも当てはめて言えることです。聖霊を求める代わりに、教会や超教派のイベントにおける運営面での成功に酔うことで、魂の奥底の空洞を埋めようとする場合もあるからです。

それだけでなく、教会や教団的成功、大きな施設や信者数が増加することや、社会的に少々影響を与えているという自負によって、自分たちの魂の空洞を無意識にも満足させようとする場合もあります。または、奉仕までが、人に霊的に仕えることではなく仕事自体に仕えることに成り下がってしまい、実務的目標を達成することで魂の空洞を埋められることと勘違いしてしまう場合もあるからです。

さらに、フェローシップ、キリストにある兄弟姉妹との交わりといいながら、人と触れることや人の温もりに満足を覚えようとして、未信者が居酒屋で人恋しく集うのと何ひとつ変わらないような交わりの中で、魂の空洞を埋めようとする場合すらあります。

これでは、私たちの魂の空洞はいつまでも埋まることはありません。

キリストが言われたことを、もう一度繰り返させてください。「この水を飲む者はだれでも、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」(ヨハネ4:13−14)

私たちが、素直になって魂の空洞が埋まることへの渇きを認めることができたら。自分の魂の叫びに耳を傾けて、あなたの魂に平安を得ることができたら。魂の深いところで休むことができたら。

キリストが言われた別のことばを繰り返します。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」(ヨハネ7:37−38)

イエス・キリストが、あなたにとってどれだけ必要か! そのことに、日本の多くの人々が気づくには、まずクリスチャン自身の腹から、生ける水が溢れ流れる必要があるのではないでしょうか。生ける水によって、魂の空洞を埋め、自分の魂を満たし、聖霊が腹から溢れ流れ出ることを体験しましょう。

その後、キリストを知らない人たちと、私たちの魂の空洞を生ける水で満たす方、生ける水を溢れさせてくださる方、イエス・キリストを分ち合いましょう。私たちの家族や親戚、親友や友人や知人、近所の人は学校関連の人たち、職場や仕事関係の人たち。彼らの魂の空洞は渇いているのです。彼らの渇きを癒す方、イエス・キリストを紹介し、彼らの為に死ぬほど彼らを愛しておられるキリストの愛を分ち合いましょう。

それでも、なかなか、職場や学校や近所の方々とキリストを分ち合えない現実があるのも事実です。それが困難な理由は、一にも二にも、聖霊によって、キリストの愛を分ち合う力がないからです。しかし、キリストは、父なる神が天からその力を与えると言われました。

そこで、イエスは、聖書を悟らせるために彼らの心を開いて、こう言われた。「次のように書いてあります。キリストは苦しみを受け、三日目に死人の中からよみがえり、その名によって、罪の赦しを得させる悔い改めが、エルサレムから始まってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる。あなたがたは、これらのことの証人です。さあ、わたしは、わたしの父の約束してくださったものをあなたがたに送ります。あなたがたは、いと高き所から力を着せられるまでは、都にとどまっていなさい。」(ルカ24:45-49)

聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。 (使徒 1:8 )

その分ち合いを助けてくださる聖霊に頼って、まず、私たちキリストを信じる者の腹から生ける水が溢れ流れることを体験することを求めましょう!

だれでも、どんな人でも、魂の奥底が渇いているなら、その渇きを生ける水で癒すことのできる方、イエス・キリストと、彼のことばと約束を信じましょう。

「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」(ヨハネ7:37−38)

あなたの腹から、生ける水が溢れ流れていきますように! そのような人生をあなたが生きることができますように! 祈らさせていただきます。

主イエスの愛にあって
ジーザス・コミュニティ牧仕
桜井 知主夫

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