2014年11月20日木曜日

シリーズ 「なぜこの教会にしたの?」Vol.2 ひろあきさん


ひろあき(会社員)

JCに来たきっかけ

やることがなく駅前で漫画を読んでいるとき、「JCでのコンサートに来ませんか?」と招かれたのがきっかけです。当時の私は、生きることの意味が分からなくなっており、現実逃避をしていました。でも、一方ではこのままじゃダメだと心の中で葛藤していました。そんなときに、そのコンサートでイエス・キリストのことを聞き、もしかしたらここに出口があるかもしれないと思い、少しずつJCに行くようになりました。

JCの何がよかったのか

私のしんどい状況に対して、神は何と言われてるのかを聖書を通して根気よく教え続けてくださったことと、たくさんの時間を使って励まし祈り良くし続けてくださったことです。

なぜJCに決めたのか

初めての教会なので、他に移らなかった理由になるかもしれません。初めてメッセージを聞き、半年間キリストのことを聞き続け、ある日突然「キリストが救いだ!」と信じました。それから約10年間、JCは「何がなんでもキリストで一致していこう!」というスタンスが変わりませんでした。「だから、今もこの教会だ!」という確信が与えられています。

JCの推薦できるところ

シンプルに、聖書を教え・愛し合い・キリストをおぼえ・祈りを共にする、不完全だし失敗もするけど、ここからブレずに追求しているところです。


ブロガー感想

若いアメリカ人と2人で、路上で個人伝道をしているときに、JR国分寺駅前でマンガを読んでいた《ひろあき》に出会いました。何度もアメリカ人の彼は「Chizuo、僕には個人伝道の賜物がないんだよ。」と言うので、そのたびに祈りました。彼と一緒に路上で伝道し5日目の午後、再び同じことを言うので、南口の階段に座って祈ってから頭を上げると、視線の先にあったベンチに座ってマンガを読んでいた《ひろあき》がいました。相棒に目で合図すると、彼も何かを感じたのか「ひょっとしたら脈があるかも」という表情をしていました。その日は、ひろあきと一緒に焼き肉を食べに行きました。

それから、何度も一緒に時間を過ごしました。後日に招いたコンサートは、とてもじゃないけれど「ゴスペルコンサート」という題目からは想像もできないほどレベルの低いものでした。しかし《ひろあき》はそのコンサートに現われました。そして《ひろあき》は教会に通い始めたのです。

新しい小さな教会ができることと言えば、みなで祈ることでした。それだけが、当初の私たちにできることでした。今から考えてみれば、それが良かったのだと思います。その後、神はこの教会を祝福してくださり、スケボーや衣料品、アクセサリーとギャラリーを扱う店が与えられました。しかし、当初はお店もなく、英会話クラスも、アートクラブもありませんでした。それでも《ひろあき》はイエス・キリストを信じたのです。そして、今では彼は賛美チームの一員として、賛美をリードしています。

神は、人を通して栄光を現わされますが、人間とは栄光を分ち合われることはありません。どんなときでも、土の器から人を救う力が出たのではなく、神ご自身から救いの力が出ていることを明らかにされたいのです。これは、だれもが手柄を取らないためです。栄光は神のものだからです。

「私たちは、この宝を、土の器の中に入れているのです。それは、この測り知れないが神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかにされるためです。」(Ⅱコリ 4:7)

私たちの方で気をつけることと言えば、神との関係の中で、神が私を呼ばれたことと、信仰によって義(正しい)と認めてくださったことを確認することです。神は、その両者を通過した者に栄光を現わされるのです。

「神はあらかじめ定めた人々をさらに召し、召した人々をさらに義と認め、義と認めた人々にはさらに栄光をお与えになりました。」(ローマ 8:30)

しかし一方で、ベッドの中で横たわってるばかりでは何も起こりません。人間の側で神の願いに応答して動くときに神は働かれるのです。私たちが駅前に路上個人伝道に行かなければ《ひろあき》はキリストを信じることはありませんでした。しかし私たちが動いたとしても、神が栄光を現わされなければ、彼はキリストを信じることはありませんでした。

ひとがキリストを信じるのは、人間業ではないのです。これは100%神業です。ひとがキリストを信じた後に、キリストのような性質に変えられて成長するのも100%神業です。そのことを心の底から信じている者に、神は力を現わされます。人間が、その力を自分のものとして誇らないようにするためです。

そもそも不完全な私たち自身を、100%正しいと認めることは、だれにもできません。100%正しいと認めてくださるのは、すべて神のおかげです。さらに言うと、神が大きな犠牲を支払われたおかげです。イエス・キリストが十字架で私たちの罪のために、ひどく苦しまれたおかげなのです。

前にも述べたようにベッドの中で横たわっていても、神は人を救いキリストのように成長させる力を与えられはしません。だれであっても求めて一歩踏み出す者に、力を現わされるのです。そして神に栄光を帰する人に、神は栄光を現わし続けられるのです。

素朴に神を求め、導きを求めてみてください。「私を、あなたのことがばで養なれ、整えられる教会へと導かれますように!」と。


主イエスの恵みと平安が、あなたの上に豊かにありますように!
ジーザス・コミュニティ国分寺 11月20日
牧仕 桜井 知主夫

http://www.calvarykb.org/index.php/about-jc/why-jc/through-jc/24-hiroaki

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