2014年7月1日火曜日

本当の意味の幸福は、的をはずれて生きていないときにこそある


「氷点」(三浦綾子)について思わされたことを、彼女の言葉を引用しながらお伝えします。

原罪 ”ゲンザイ” 自己子チューの根っこにある淋しさ=原罪/『氷点』は現在(いま)に何を語るか。

と『氷点』が人の心を大きく揺るがせたのは、そのテーマである人間の持つ「原罪」を訴えたからである。いま、生きにくい世の中にあって「人はいかに生きるか」が見つめ直されているなかで、「原罪」の持つ意味を真正面からわかりやすく紐解くとともに、現代におきているさまざまな事象との関連を見つめる。(氷点50周年ガイドブック・三浦綾子文学記念館)

「小説(氷点)を書きたかったのは、本当の意味の幸福は、的をはずれて生きていないときにこそある、ということを言いたくて書いたのです。」(三浦綾子・信仰と文学)

彼女は、代表作である「氷点」を通して、原罪(罪)について訴えたのである。この作品は、自己中心に生きて、神がどのように生きて欲しいかなど理解しない生き方では不幸であることを訴えている。的をはずれて生きる=罪の中を生きると必ず不幸になる。心の底で幸せ(喜びで満たされる)のは、的を外れて生きていないときこそ訪れる。

三浦綾子さんは、とても悪い人でした。(かくゆう私もとても悪い人でした。)彼女は、同時に二人の人と婚約し、また、病床にいたときは、元婚約者が違う女性と結婚した後も、元彼との逢瀬を頻繁に楽しんでいるような人でした。自分がしたことについて、彼女はのちに以下のようなことを書いています。(三浦綾子・信仰と文学)

「私がもし第三者なら、きっと昔の婚約者とあっているこの女を責めたであろう。しかし、自分のこととなると、なんの痛みも感じないのである。」

「その頃、ある牧師にこんなことを言われた。彼はまず、新約聖書のローマ人への手紙5章を読んでくださった。『ひとりの人によって、罪がこの世に入り、また罪によって死が入ってきたように、こうしてすべての人が罪を犯したので、死が全人類に入り込んだのである。』『もし病原菌があなたの血液の中に発見されたらどうします。どんなにか驚いてすぐに医者に駆けつけることでしょう。しかし、罪があることを知っても、神のところへは行かないものです。』」

「この聖句と、先生のことばによって、自分の中に罪が病原菌のように入り込んでいることを、実感として私は感じさせられた。」

「すべての人間の心に根深く巣食い、罪の根をはびこらせるもの、それは、自分こそ正しいと思い自分自身を神とすることにある。」

「みんなが正しいと思っている。」

「だから、私たちは、人をさばくなと言われても、一日だって人を悪く思わずにはいられない。平気で人の悪口を言う。自分も同じことをしながら、自分は罪を犯したことのないような顔をして、人を責めている。」

真剣に、自分の心の中をのぞきもむなら、私たちは、本当に思い上がった姿をしている自分に、ふと気がつくに違いない。正しいと思っているから、思い上がるのだ。

「私は小説「氷点」の中で、あの少女陽子の姿の中に、この「自分を正しい」とした姿を描いてみた。陽子はその遺書の中で、こう書いている。『いままで、どんなにつらいときでも、じっと耐えることのできましたのは、自分は決して悪くないのだ、自分は正しいのだ、無垢だという思いに支えられていたからのなのした。』なんという傲慢な言葉であろう。人の目には、どんなに正しい人間にみえようと、どんなに良い人間に見えようと、私たち人間には、こんな大言を吐けるわけがないのである。この陽子の姿勢の中に、人間のもつ原罪を書いてみたいと思ったのである。」

「もう90歳を過ぎた信仰の先輩が、いつか私に言った。『人間というものは、底知れなく悪いものです。』その嘆きを込めた一言は、私の胸を打った。いやえぐったといった方がよい。それは他に対して発した言葉ではなく、この先輩が、ご自身に向けて発した言葉だったからである。…「人間というものは、底知れなく悪いものです。と、嘆くことのできるのは、本当に神を知り、神の前の罪深い己を知っているということなのだろう。」

私たちも常に、この方のように神を見つめ、神の光によって、本当に己の罪を知りたいものである。それが私たちの真の救いに関わることだからである。

 詩篇51:1-7
 神よ。御恵みによって、私に情けをかけ、あなたの豊かなあわれみによって、私のそむきの罪をぬぐい去ってください。どうか私の咎を、私から全く洗い去り、私の罪から、私をきよめてください。まことに、私は自分のそむきの罪を知っています。私の罪は、いつも私の目の前にあります。私はあなたに、ただあなたに、罪を犯し、あなたの御目に悪であることを行いました。それゆえ、あなたが宣告されるとき、あなたは正しく、さばかれるとき、あなたはきよくあられます。ああ、私は咎ある者として生まれ、罪ある者として母は私をみごもりました。ああ、あなたは心のうちの真実を喜ばれます。それゆえ、私の心の奥に知恵を教えてください。ヒソプをもって私の罪を除いてきよめてください。そうすれば、私はきよくなりましょう。私を洗ってください。そうすれば、私は雪よりも白くなりましょう。


▷逆に、彼女が言うように、「真の救い」とはどれほどありがたいものだろう! 主をほめよ!
Ⅰヨハネ4:9−10 
神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです

真正面から罪を見つめることに弱いと、それに比例して、罪の赦し、神の子としての関係も弱くなる。

そんなことでいいのだろうか?

決して、そんなことでいいわけがない。




もしよろしければ、「読者」として登録していただければ、今後みなさんの益になることを書いたときに、自動に連絡が届きます。コメントもいただければ、これからのブログを書く上で役に立ちますので、歓迎します。

0 件のコメント: